景観以前−目の欲望

 

1) 見たいという欲望

  先日、アメリカの哲学者 J・グレン・グレイの名著「戦場の哲学者」を読んでいたら

  戦争のもつ三つの魅力としての まず第一に「目撃することの楽しみ」をあげていた

  聖書の中にも「目の欲望」と称して

  人間の原始的な衝動として見ることへの愛着があるという

 

2) 野次馬の誕生 

  上によれば 人間は新しいもの 普通でないもの 壮観なものを求めるらしい

  ときとして見ることに完全に没入する というのだ

  公道の事故現場 あるいは火事場での人々の顔つきを見れば

  そのとき まさに忘我の瞬間にあるという    

  戦争を見物する というおぞましい楽しみや公開処刑の見物など

  およそ理性とは正反対の 見るという行為は自我に超越するほどの

  見たいという欲望から生じるものらしい

  たしかに連日放送されるTVのワイドショーも同じことのように思える

 

3) 観光旅行 

  2足歩行によって 言葉を得た人類の脳の発達は 社会という概念とともに

  好奇心や知識欲を持つにいたったと解釈されるが

  アフリカで発生した人類の祖先が世界中に拡がっていったのも

  そうした好奇心や知識欲に裏打ちされた見たいという欲望の結果かも知れない

  また経済の発展とともに始まった物見遊山は 聖地巡礼からはじまり

  当初寺社への参拝を目的としていた

  当然のことととして 景色を眼にすること さらには遊食を含めた体験がそれに加わった

  それらは易経の「国の光を観る」 あるいは西欧貴族の子弟たちのグランドツアーには

  遠くおよばないが 今でも我々のDNAに深く関わり

  TVの旅番組・グルメ番組は安定した人気がある  

  つまり景色にくわえ祭り・温泉・グルメなどの日常性を越えた体験を求めるのだ

 

4) スポーツ観戦   

  レジャー行動の大きな柱でもあるスポーツの観戦も

  サーカスや見世物と同じく 新奇なものを求める どちらかといえば

  事件性につながるような臨場体験を欲しているようだ

  つまり何かが起こる という期待感がその魅力でもある

  単なる試合の経過に留まらず 競技場への道すがら

  あるいはスタジアム内部や観客席の様子なども光景として記憶される  

 

5) 芸術鑑賞

  視覚体験として没入する という意味において劇場空間における演劇や映画などの

  芸術鑑賞は以上の要素にくわえ 美的な要素がより多くなる

  それは音楽の鑑賞にも含まれていて 楽団員の衣装の統一や

  そこでの指揮者やソロイストの衣装あるいは演奏スタイルも印象に大いに寄与しそうだ

  もちろんスポーツ観戦と同様に 一連の行動における視覚体験が

  脳の中に残ることになる

 

6) 記憶としての光景

  一般的には不都合な視覚体験は忘れる傾向にあり

  快適な視覚体験だけが記憶に残ることになるのだが

  あまりにも強烈な視覚体験はPTSDの一因として 心に大きな傷として残ることになるようだ

  そこまで行かないまでも記憶の外の視覚体験はどこかに残っていて、

  いわゆる既視感(デジャブー)として唐突に蘇ってくることもある

 

7) 感覚刺激の馴化

  さらに光景の記憶だけでなく、視覚そのものについてもみてみたい

  一般的に感覚は馴化する傾向があって

  聴覚や嗅覚などの感覚刺激が いとも簡単に馴れてしまうのは

  日常生活においてしばしば経験することだが

  視覚も生理機能のひとつであるならば そこにおける馴化も

  十分起こりうることである

  明るさに対する順応性や 補色反応がそれであり

  あるいは錯視なども同じ様なものと考えることもできそうだ

  また手品や奇術でも その応用範囲は広いようだ

   ただそういった視覚における馴化が

  次に述べる視覚体験にどれだけ影響しているのかは未だ不明だ

 

8) 日常景観の恒常性

  今まで述べてきたような非日常的な光景としての個人的な視覚体験とは別に

  日常景観ともいえる視覚体験がある

  パリのエッフェル塔の建設時における論争は有名だが

  いつしかパリの都市景観になくてはならないものになってしまった

  同様な問題は国内においてもよく聞くことだし

  日頃の生活を返りみても頻繁に起こりうる

  例えば新しい道路が開通したとき あるいは新しい建物が出現したとき

  当初はある新鮮な感情をいだくものの すぐにその存在に馴れ

  むしろそれ以前の昔の風景は思い出しにくくなってしまう

  わずかに対照とする写真など眺めたときに その記憶が蘇るのみである

  だから慣れ親しんだ風景 つまり日常景観においては

  「恒常性」ともいうべきものが存在するように思えるのである

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2009・11・14

 

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