松川街道筋今昔推測/緊急補足・旧坂の痕跡

2010・3・27

先日散歩の折 久米路橋を渡っていて ふと前方の斜面が気になった

下記のように羽場坂の推測はしてみたものの 古絵図との不一致にすっきりしないものを感じていた

ようやく梅の花が散り始めたころ もう一度古い坂の痕跡を探してみた

すると明らか とはいえないものの それらしいものを発見したので

下記の内容を補足・訂正しておきたい

久米路橋から箕瀬の段丘を見上げる 竹藪の左に畑の小道がありそう

梅の畑の途中に作業小屋があり 小道が続いている

羽場坂バイパスからの上り口

ジグザグに足場の悪い小道を登ると 小屋の上からはそれらしい坂道

さらに登ると 法面を固めた中に小道が続く 斜面下は竹薮で見通しはきかない

登りきって左に折れると民家を通って箕瀬に抜ける

右写真は箕瀬側からの小道 鉄製の門扉があって関係者以外は入りにくい状態

箕瀬から羽場坂方面 電柱のところが上記民家の通路

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というわけで以下の記述はどうも誤りのようだ

江戸時代の初期に より安全な坂が替わりに造られたように思える

だとすれば古文書に記述があるかも知れない

今後の研究課題として 訂正せず そのままにしておきたい

(2010.3.20)

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飯田丘の上から南部への街道の変遷を大胆に推測してみた

近世の街道筋

当時上橋場を通る上街道 下橋場を通る下街道と呼ばれていたようだ

上街道は伊賀良・根羽を抜け 足助から岡崎にいたる三州街道(現153号)

松川に沿った道は定かではないが 途中から分岐し長坂を上って三穂にいたる久米街道

なお三州街道は飯田の町を通過し伊那・辰野から小野宿 善知鳥峠を越える重要な街道で

そこでの馬の背を使った運搬手段は中馬と呼ばれ中馬街道とも言われている

下街道は牛草坂を上り 八幡坂を下って 八幡の町を通り

天竜川を渡って遠山谷を通過 青崩峠から浜松にいたる秋葉街道(現152号)と

八幡の町から下条・新野峠を越え遠州金指にむかう遠州街道(現151号)

そこで図中の箕瀬坂と名付けた坂の下り口が問題となる

そこに枡形の存在が確認されていて 様々な資料があり 図中赤点線のようなルートを考える人もいる

飯田城ガイドブック 「飯田城・城下町 旧跡散策マップ」 より

同 「江戸時代初期の絵図」 より

 

ここでは別資料により黒点線ルートをとりたい 注意したいのはこれが羽場坂とされている点

近世江戸時代初期の箕瀬町(出典不詳)

 

2 明治中期以降の新道開発

明治の中期に猛烈な陳情がなされ 二つの橋が開通した いずれも製材によるトラスの木橋で

当時 白橋と黒橋と呼ばれたようだ この時期同時にそこからの新道も開発された模様(図中青線の現在の羽場坂 と水の手)

いずれも今までの坂に較べると緩やかで長い坂であり この段階で大きく交通手段が変わったようにも思える

今までの二つの坂は急で荷車での通過は現実的でない 牛馬の背あるいは人間の背での荷物の運搬が主と思われる

明治維新から年月も経過し世情もようやく落ち着いたのか さらに農村舞台や民家に見られるように

おそらく生糸輸出での産業の発展から 大きく社会構造が変わったのではないか と推測したい

ここにおいて三州街道は新しい羽場坂を通過することになった

古い羽場坂(箕瀬坂)は次第に重要度を失っていき さらに名前もなくなってしまったようだ

白橋渡り初めの絵馬(出典不詳)

黒橋 「下伊那写真帖(大正3年刊 昭和63年復刻版)」より

上橋(久米路橋) 同

 

3 大正から昭和初期 飯田線延伸と永久橋への架け替え

続いての大正から昭和にかけての交通事情は飯田線(当時は伊那電気鉄道)の延伸である

飯田駅以南については段丘を下る部分が大きな工事で 資料によれば掘割で生じた土を

関東大震災の復旧工事で使用した12台のトラックを貰い受けて運搬し谷川線を作ったようだ

同じころにトラック輸送がはじまったようで松川に架かる木橋は順次鉄筋コンクリートの永久橋に

架け替えられていく 

それまでの木橋は河の氾濫で流されたり腐朽が激しく 何回も架け替えられてきたようで

悲願の永久橋の登場ということになり 現在の橋の名前はその当時付けられたもののようだ

いずれも昭和レトロの雰囲気を感じさせる親柱と欄干のデザイン

松川橋(昭和12年) 「飯田の昭和史」 より

鼎橋渡り初め(昭和10年) ふるさと写真館「飯田」 より

久米路橋の渡り初め(昭和14年) 「飯田・下伊那の今昔」 より

 

その後のクルマ社会の進展により 交通量の増加での歩道の必要性あるいは対面交通の必要性から

幅員の拡幅が計られ架け替えられることになった この時点で飯田橋は城下大橋と名前を変えた

高度成長期には箕瀬坂(旧羽場坂)の下部を利用して羽場坂バイパスが完成した

さらに久米街道は拡幅され運動公園通りとなって新久米路橋により羽場坂バイパスと結ばれた

唯一昭和の姿を留めるのが鼎橋(歩道橋を併設)である 

また久米路橋の架け替えによる古い橋の遺構は その50mほどの上流の堤防上に親柱が90度回転し残されている

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2009・7・10

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