大正昭和 飯田むかし語り
長姫橋石造出来形図
歴史研究所建築史ゼミにて 石造化資料の存在を知った 当時 東大院生の江下以知子氏が提出した博士論文で
「明治前期地方都市に関する地域紙研究 長野県飯田市を事例として」 2016年(以下 江下論文)である
その参考文献として座光寺の今村家に伝わる文書があげられ 中の出来形図が以下のものである
左上が谷川下流側からみた石造アーチ その右に アーチにつづく現銀座側の宅地造成の様子
なお下の2図は上流側の出来形で 右が現中央通り側となっている
江下論文では 当時の工事に関わる人工や費用を検討していて ほぼそのまま工事が進行したものと思われる
*
当時工事を主導した今村真幸(いまむら・まさき 旧姓 北原豊三郎)の御子孫・今村善興氏には
座光寺の舞台校舎の現況調査と改修方針について 報告したことがある
当時 (いまむら・まこう) と呼んでいたのが印象に残っている
*
ここで注目したいのが右上宅造図の中に 地主名として高坂氏の名はあるが 岐阜屋の名がどこにもないことで
つまりこの時点では 我が祖先は まだここにいなかったと解釈していいのではないか
建築史ゼミの中山さんの調査資料によれば 上と同様に谷川南には高坂氏のほかは官地となっっている
やはり長姫橋石造化・宅地化される前は このあたりはほぼ谷川の河川敷のようなイメージと考えてよさそうだ
明治10年の工事完成後に 下記建物が建設されとものと解釈したい
*
というわけで下図の橋は石造であり 手すりが木造と考えられる また橋の端に掲示板があるのにも注目したい
絵では 無理やり橋を描きたかったのであろう やや不自然な重なり具合となっている
(2014・11・20)
*
松川街道筋今昔 羽場坂の変遷 →こちら
北主税町 義富屋商店
そんなある日 建築史ワークショップのメンバーでもある八木さんが 下の画像データを送ってくれた
上記 長姫橋の南詰 我がご先祖「義富仙」の町家風景で 明治22年発行の「商工便覧」に掲載されていた図版
ずいぶん誇張された絵のようで一見大店のようだが 間口は6間 それに梁間1間半くらいの土蔵が並んでいる
長姫橋は明治の11年に旧飯田城の堀の石を使って改修としたという記録があるが
この絵によると未だ木橋で時代的にはあわない また大量の埋土をどこから調達したのか
むしろこの絵は現在の橋の高さ以前の低い敷地と考えた方が辻褄があいそうだ
あるいは橋や道路の幅が現在よりも狭く その後の道路拡幅により建物が後退したとすれば
その時点で崖屋造りになった という推論も成り立つが
明治26年に橋の嵩上げ工事の記録があるので木橋の可能性が高そうだ
現在の長姫橋を逆の東側の公園方向から見たところ
水面から護岸の石垣が立ち上がり地盤となっている 記憶の中の大火後の店舗兼住宅は
ここから低い1層の物置があり その上が住居 さらに橋のレベルが店舗となっていた
2階建ての土蔵はこの写真左端部分にあった(昭和3年の棟札あり)
さらに橋の名称である 一般的に「めがね橋」は石造のアーチ橋を呼ぶ場合が多い
写真で見るとかなり低い位置に石造アーチがあり かなりの高さで道路の嵩上げがなされたようだ
おそらく「長姫橋」が「めがね橋」と呼ばれるようになったのが アーチ橋の完成時期といえそうだ
*
橋の架けられた時期と構造については今後も調査を続けたいが いずれにしても谷川線の成立時期と
関連がありそうで その際 伝馬町筋もふくめ 大々的な工事が行われた可能性もありそうだ
昭和29年村澤武夫編「飯田今昔家並帳」より 明治23年頃として「松島仙吉」の名前が谷川の橋の南詰に登場する
右3枚の図版は主税町の町内史「主税町のあゆみ」によるもので 1枚目が明治25年頃 2枚目が大正元年〜5年頃
3枚目の右端が昭和元年〜7年頃とされているが そこには長姫町として谷川線の姿が描かれている
明治以前の家並帳に「ぎふや仙右ヱ門」という名を松尾町や伝馬町に見ることができる 前に仙右ヱ門という位牌を
眼にしたことはある それが家並帳の人物かどうかは不明 ただ和紙の関係で美濃から移ってきたことはいえそうだ
(2013・1・17)
2階会議室より願座通りの俯瞰風景 道路が曲がっているところが谷川の長姫橋
つまりここから手前が橋南で奥が橋北になる
(2022・2・6)
伝馬町1丁目から銀座方面へ下るのだが 道路軸がズレている感じ
2013・12・15
*
毎年2月の初旬の5日間 飯田中央図書館は臨時休館となる
新刊も少なく その間の読み物として 2階郷土コーナーを物色し 前から気になっていた 「聞き書き}集を借りてみた
*
聞き書き 「飯田町の暮らし 1 大正昭和期・飯田町の社会史」 飯田歴史研究所 近代史ゼミナール
2005年刊で4人のお年寄りにインタビュー
ゼミ主宰の田中雅孝研究員が高校国語の田中太七先生の令息だったとは
*
聞き書き 「飯田町の暮らし 2 大正昭和期・飯田町の社会史」 2006年刊で やはり4人のお年寄りの聞き書き
提灯屋さんと曲げ物屋さんの話が とくに面白くて印象にのこった
(明治期の伝馬町) (同 番匠町-通り町1丁目)
聞き書き 「飯田町の暮らし 3 大正昭和期飯田町の社会史」 2007年刊で 今回は5人への聞き取り
興味をもったのは 戦後の菓子業界の様子 全国的な半生菓子の展開
*
聞き書き 「飯田町の暮らし 4 大正昭和期・飯田町の社会史」 2010年刊で やはり4人のお年寄りの聞き書
飯田タクシーの創業時 銀座の呉服店の当時の繁盛ぶりなど 貴重な話
(2023・3・5)
{飯田町の暮らし5 大正昭和期・飯田町の社会史」 2013年刊 それだけに聞き書きの対象は7人
紙問屋の暮らしぶりほか 芸能社の子役の日常など
*
「飯田町の暮らし6 昭和期 飯田・上飯田の社会史」 対象地域を上飯田まで含め4人の聞き書きで
2015年刊 上飯田の果樹農家の苦労話 と美容師としての半世紀など収録
「飯田町の暮らし7 昭和期 飯田・上飯田の社会史」 2018年刊 6人への聞き書きで今回700円の定価表示
やはり町場の子供たちの遊び 縄張り意識など面白く読んだ
*
「飯田町の暮らし8 昭和期 飯田・上飯田の社会史」 最新刊は20121年刊 で7人への
聞き書きで 800円の定価表示 大火復興時の町の様子など これも貴重な証言
**
「子どもたちの大正時代 田舎町の生活誌」 古島敏雄 平凡社1800円
飯田市主税町出身の東大名誉教授 (1912―1995) の飯田町回想録 1978年刊 著者69歳
さすが農業経済史が専門 微に入り細に入る 子ども時代の描写 出てくる場所は ほぼ想像可能
表紙裏の見開きは 飯田町の略図 方位は北が上ではないが 当時の意識は こんなかな
ということで そのまま掲載
(2023・4・9)
郷土の百年 南信州新聞社 昭和43年 500円
飯田文化財の会・編 明治百年を記念して同新聞に連載を書籍化 44名の執筆で昔話を収録
好評だったらしく 右は その続編 翌44年刊で 700円 執筆者は50名
当時 父親が同新聞社の役員で プロデューサー役を担っていたらしく 我が家の書棚にあった
昭和5年の飯田町の住宅地図 飯田信用金庫本店の壁に掲げられている
同様に方位はそのまま とした
(2023・4・25)
**
飯田町は明治8年(1875年) 城下20町で発足
同22年(1889年) 上飯田村の一部を合併し 正式に飯田町となった
昭和12年(1937年) 上飯田町を合併し 飯田市政が施行された
(2023・3・26)
飯田大火と復興都市計画
昭和22年4月20日の飯田大火 左が町場の状況 右は おそらく東鼎あたりから見た 段丘上の大火災
大火の焼け跡の惨状 追手町小学校からの撮影か
「地域防災データ総覧−防災まちづくり編」 (財)消防科学防災センター平成4年刊より
2ページにわたって執筆を担当した 左ぺージが焼失部分 右ページがその復興図部分
国土地理院で保管している米軍空中写真 撮影は昭和22年9月22日であり
4010戸を焼失した4月20日の飯田大火の5ヶ月後 白っぽいところがほぼ焼失部分のようだ
飯田都市計画概要 昭和29年10月 発行は飯田市土木課
飯田大火から7年 復興都市計画の完了を期に発行されたもの
減歩とともに難航した墓地整理の経過を 当時の土木課長が生々しく報告
*
現在の谷川公園から西方向の撮影 都市計画でテニスコートを造成 その完成写真
中央やや右寄りの土蔵が 我が家のものらしい その奥に住居部分が一部見える
土蔵はしばらく残っていたが 40年ほど前に解体 長さ 3間の小屋梁3本を業者から譲り受け
折から新築中の 上郷の和風料理店・東京庵別館に使用した
解体時に棟札も発見 それによれば昭和3年築 棟梁はわりと有名な〇〇亀次郎(苗字は失念)
(2023・5・15)