景観デモクラシー (景観における政治性について)

市役所改築黒松騒動 →jump 追悼「記者桜」 →jump

補足/文化的景観・景観地理学講義 →jump 景観保全?羽場竹藪伐採 →jump

中央道側道法面・防草シート考 →jump 電線鳥除けワイヤー装着 →jump

リニア飯田駅ワークショップ →jump 旧三州街道竹やぶ伐採 →jump

追手町ビル外壁補修 →jump JR飯田駅舎化粧直し →jump 

 

※里山景観共同体 →jump

 

新人形時計塔パクリ?疑惑

昭和63年に設置された時計塔は正時には扉が開き 人形が上下していたが

老朽化には勝てず 役目を終えることになった

そして100mほど南に移動し新人形時計塔が完成した

それにしても ダサいデザインだ 塔自体のバランスも悪いし 脚部のレンガタイル張りの必然性も感じない

とてもデザイナーや彫刻家・建築家など造形アーティストが関与したものとは思えない

デザイン案検討などは市民会議がおこなったというが いつものとおり市の担当課が進めたものだろう

これも推測でしかないが おそらく人形メカの製作会社に案を出させてそのまま承認

というかたちになったのではないか

街なかのデザインにたいして無責任なのは市役所の改築計画においても見られたこと

メカと造形との調整は簡単ではない がそこを 時間をかけて じっくりと検討してもらいたいのだ

そして10時になり 窓が開いて音楽とともに人形たちが上下する

終わると どこからか拍手が起こっていた

これはフェスタ期間中の8月5日午後7時

(2018・8・21)

鎌倉駅西口時計台

ある人から新人形時計塔が鎌倉駅の時計台に似ている との情報があった

ネットで検索してみると 結構有名らしく いくつもの記事と写真を見ることができる

もともとは旧駅舎の屋根上にあったもので 愛着があるとして 保存の要望があったらしい

おそらくデザインには苦労したと思われるが それなりにまとまっている

飯田市の人形時計塔のバランスの悪さとくらべると違いは歴然としている

(なおこの写真は岡戸秀仁さんのHPから無断借用しています

近日中にオリジナルと交換しますので 岡戸さん しばらくゴメンナサイ)

(2018・10・16)

東京出張の折 鎌倉まで足を伸ばし西口の時計台を訪ねてみた

銘板には旧駅舎解体の際 市民から保存の動きがでて 時計台とした旨の由来

当時の市長の直筆かは知らないが 文化都市に相応しい趣のある書体だ

ただでさえ昨今の鎌倉人気にくわえ 周辺はイベントの際の基地になっていて 大変な混雑

脚部はインド砂岩と思われるが 36年の時を経て風格が漂っている

ただ裏側は喫煙者のタマリ場となっていて 煙モウモウ

(というわけでキチンとした写真は撮れませんでした 岡戸さん申し訳ありません)

(2018・12・16)

 

1) 景観社会学の展開

 今まで景観インタビューを続けてきたのだが つくづく「景観」とは社会学だと思う

 別項でも述べているように 景観イメージとは個人の脳内イメージそのもので

 そこから普遍的なものを分類し 構成を要素に分解し そして再現する

 という工学的手法にはまったくそぐわないものではないだろうか

 あるものをあるがままに提示し その中での人間の生活 個人の感情を想像していく

 というまさに社会学的手法でしか 共有できないのではないか とつくづく考えるのだ

 

2) 景観楽のすすめ

 景色を ある空間の中で体感する際 個性(個々の感性=個々の想像力)は

 様々なイメージをメッセージとして受け取る

 (美しさ・楽しさ・明るさ・スピード・安心・驚き・清潔・健康・懐かしさ・落ち着き・癒しetc)

 それに共感することが「感動」 である

 その時 生きてい<ことを肯定し あらためてフレッシュな感情つまり「希望」を実感する

 そんな景色・風景をみつけ 日常生活の中で楽しむことを「景観楽」 としたい

 

 「衣食住」という言葉があり それに続くものとして例えば「知遊健美」とあげる人もいる

 人間の生存に必要なものの次に望むのは より脳を刺激する想像力を必要とするものだ

 食について考えるとすれば 腹が減っていれば何でもウマい というのは真理ではある

 同様に素材がよければ できるだけ手をかけない方が旨いのだ という人もいる

 そこで料理とは何か という話になるのだが できるだけ手間ヒマかけた料理を食する

 というのは まさにゲームなのだと考えたい

 素材はもちろん調味料・包丁さばきを始めとする料理法から 器や食する空間までが

 味わう対象になり 量や味の濃さ(塩分・糖分) 脂肪の旨さなどで勝負するファストフードや

 フードチェーン店とはまったく別の世界がある

 

 つまりそれは単なる味覚にとどまらず 脳の中での想像力で味わっているということで 

 これこそが「…楽」と呼ばれるものなのだ

 そこで必要とされるのが経験で 料理の評論家や薀蓄を語れる人は

 幼少の頃より美食に慣れ親しんだ 裕福な家庭の出身者に多そうにも思える

 音楽においても然り 文学や美術の鑑賞も「…楽」なのである

 つまりはそれを楽しむには あるていどの経験と知識が必要とされることに他ならない

 「景観楽」についても同様で それを構成する空間全体 あるいは季節・時間・気象など

 総合的な景観を楽しむことになるのだ

 

3) 景観の脳内イメージ

 いままでの景観インタビューであげられた場所について 「私の好きな風景」として紹介している

 聞いた場所を筆者自身が確かめて 写真に撮っているもので

 したがって筆者の景観思考からバイアスがかかっている可能性も否定できない

 何ゆえそうするのか と問われれば 個人の景観の脳内イメージを表現することの

 難しさ ということにつきる

 現場にて指摘されることなら確実なのだが あそこのあの感じ というのを

 写真で表わすのは非常に難しい

 たとえば「南アルプスの雪山を背景にした飯田市街の午後の風景」というのを

 考えた場合 視点の高さ 市街地と雪山との角度 太陽光線 背景の青空などの条件

 とくに問題となるのが 焦点距離の選択とトリミングであることは別項でも述べている

 さらに困ったことは 現実にはありえない風景を脳内イメージとして描いている

 ことが往々にしてありうる

 

4) 開発と保全…景観原理主義

 さらに景観インタビューでは 建物高さについての意見を聞いてきたのだが

 かたくなに現代都市風景を否定する人達がいる それは景観原理主義ともいうべきもので

 高い建物自体が悪なのだ というのもその一例である

 ただ景観が個人のイメージである限り その多様性には寛容であるべきというのを

 基本的なスタンスとしたい そしてそれを景観デモクラシーと呼んでおきたい

 だからたくさんの例をみながら検討を重ね 答えを出していく という民主主義そのものの

 手続きを大切にすべきだと思う

 つまり政治の場における民主主義と同様 景観の場においても手間ヒマがかかるものなのだ

 これは環境問題についても同じで 生物多様性や水資源・緑環境など

 いわゆる環境原理主義的な思考には逆らえない という風潮すらあり

 ときとして出口の見えない政治問題化してしまうことも多々ある

 やはりここでも柔軟な思考でコンセンサスを得ることが理想であろう

 

 ※原理主義とは

   最近読んだ 遺伝学者・人類学者スペンサー・ウェルズの「パンドラの種」によれば

   「原理主義は何かほかのものに対する反対という形でしか存在しえない。 つまり

   抗議運動なのである。」 としている ここではこれを拡大解釈し

   「対案を出さない あるいは出せない抗議運動は原理主義である」 としておきたい

 

5) 景観的価値の考え方

 以上を理解した上で景観行政も考えなければならないのだが

 現状の景観法は やはり上記工学的手法の延長にあるだけに

 数値化できる部分に限定せざるをえない点があり

 一歩前進とはいえ発展途上と言わざるをえない

 しかしさらに定量的価値をさぐる動きも多々ある

 例えば近年 その環境なり景観の経済的価値を求める という方法が模索されている

 これはとくに観光地などの経済的価値を数値化する方法で

 具体的には 「この景観を維持するためには どのくらいの金額を払っても良いか?」

 を訪問者に尋ねる調査方法である

 直裁的に経済的価値を求めるというのには抵抗のある向きもあろうが

 一つの議論の出発点としては あながち間違ってはいないのではないか

 むしろ堂々巡りの原理原則論から抜け出る方法の参考としてみたい

 

 同様に普遍的な景観的価値をどう考えるか ということであるが

 以下のものが上げられよう

 @) 市民にとって美しいもの 親しまれてきたもの いとおしいもの としての価値

 A) 歴史的価値 過去の人々の生活との関わりでの文化財価値

 B) 構成物(地質・地形・生物など)の希少性 あるいはスケールの価値

 などである

 これらはすでに環境アセスメントで行われている項目ではあるが

 必要なのはオープンに個々の価値観を認め合うということであり

 最初に戻っての社会学的方法にくわえ 以上をひっくるめて議論を進める場が

 用意されなければならない そこにおける自由闊達な意見の交換から

 景観意識がさらに高まることが望まれるものである

 

2012・3・18

 

補足/文化的景観・景観地理学講義 (2015・6・14)

飯田市歴史研究所の主催する飯田アカデミア 第74講座として 文化的景観についての講義

講師は文化庁の若手・鈴木地平さん 現在は世界文化遺産室付だが

文化庁記念物課文化的景観部門の技官としての全国の文化的景観の保存・活用に携わったという

以下 会場の上郷公民館205会議室からの天竜川河岸段丘のパノラマを愛でながら

 

地理学の立場からの学術的景観学と理解したが それはまさに旧制諏訪中学の三沢勝衛先生の

地理風土学の授業を受けている感じ 文化財としての景観論の組立ては固まった印象を受けた

たしかに 守るべきもの 重要文化的景観という理念はわかるのではあるが やや固苦しく

もう少し気楽に あるいは別の考え方で景観を楽しむ方法があるのではないか とも思った

前にも述べているが 人をして感動させる景観は地理学的な理念だけからではないはずで

景観というものが 須らく 「かくあるべし」 (それでなくては) ということになってもらっては困るのだ

講師は ビジュアル・ランドスケープ と称していたが オーシャンビューや同一カラー世界

御来光・夕日風景やパノラマ風景 また廃墟・工場萌え なども立派な景観概念である

生業だけでなくある瞬間のホッとした感情 あるいは感動し希望を感ずることも生活景観として

個人にとって大切なものだと思うのだ その多様性を認める姿勢は基本的にもっていたい

また誰にとって守るべきものなのか そしてどれだけの人がそう思うのか という点にいたると

そこには政治性が姿を現してくる さらに歴史性においても その判断が難しくなることもありうる

ここでいうデモクラシーとは そういった景観の政治性についての意味あい で使用している

 

*

追補1/市役所黒松を巡って

(2012・3・22)

 最近 巷で話題となっているのが市庁舎改築にともなう黒松の扱いである

 別項にもあるように市役所改築で民有地の買い上げと建物の解体が進んでいるのだが

 ある住宅を解体したところ その庭にあった推定樹齢300年の見事な黒松が表にでてきた

 もともと基本計画では それを伐採し新設道路を通す予定だったのだが

 一部の市民から残すべきだという意見がでたものである

左は民家が解体される前 右は解体後の黒松

さらに奥の新聞販売店解体後は目立つ存在になりそうだ

 

 高さ15mの黒松ゆえ 移植するにも時間的な問題とともに 相当な金額が予想され

 さらに定期的に手を入れる必要があり 担当部署としては残すことには

 消極的となっていたが つい先頃 伐採の方針を決定したらしい

 ここでは以下に述べてきた点から あえて意見を出し合い コンセンサスを経て

 結論を得ることが 今後の景観行政を考える上でも重要であると考え

 そのような機会を逸したことを 残念に思うものである

こちらは現市役所敷地内の大ケヤキとその脇のサルスベリ

いずれも旧大久保小学校の頃のもので 改築後も残すことになっている

 

 また景観の保全についても 様々なケースがある

 これは全国的な問題でもあるのだが 古来の景観の名所が植物の繁茂によって

 その本来の美しい眺望が妨げられ 樹木を剪定する事例が報告されている

 飯田周辺でも古写真をみると 緑の量は現在とくらべ圧倒的に少ない

 おそらくはあるていど定期的に燃料としての利用が図られてきたように思える

 また雑草はもちろん 竹薮の成長などで 景観阻害を起こしていることも見かける

工事が進む東和町交差点 とくに南側の桜は2本を残して伐採 北側も枝垂れ3本を移植 残りは伐採

伐採木の選定は その生物的重要度に応じているようではある

 

 最近の報道によれば天の橋立が景観危機になっているという

 これも松の落ち葉利用という生活習慣がなくなって 痩せた砂地から土壌が富栄養化し

 広葉樹の生育が進んで いずれ松林景観が失われそうだという

 落ち葉の処理と広葉樹の伐採が必要との京大准教授の指摘があった

 これらは上記とは逆のケースで 考えなければならない問題だ

左は解体前の交通安全塔 160万の費用をかけ撤去後が右写真

事前に市民の検討はなされなかったが とくに異論は出ていないようだ

 

 さらに特殊な例としては 先の東北大震災に伴う津波の結果としての景観変化

 とくに屋上船や屋上バスなどの処理についてである

 被災者の心情を慮り 防災研究者はもとより政治家や大メディアもほぼ沈黙している

 同じような負の景観遺産は原爆ドームや世界各地に残る収容所遺跡などがあるが

 それらはある意味政治的な判断がされやすいことにもよるのであろう

 あちこちに残る津波石とは異なり 生々しすぎるという現実をどう判断するのか

 ここでも問題提起だけはしておきたい

*

追補2/黒松保全の方向性

(2012・4・19)

 その後 案の定 政治問題化して議会建設委員会でもめ続け現在に至っているのだが

 建設委員会の少数派である保全派は道路の位置を変更して保全する提案を行ったらしい

 つまり1級河川の上に道路を建設する という方向であり 高度な政治力が働いたようだ

 しかし果たして この位置に黒松があるのが適切なのか もう一度考えてみたい

 

 どちらかといえば和風イメージの庭木であり 新庁舎のデザインと違和感なく存立できるのか

 あまりにも近すぎるのではないか 周辺もふくめ修景にはかなりのデザイン力が要求されそうだ

 くわえて一般家庭の庭木として存在してきたものであり 公共の空間の中でどう意識されるのか

 このまま政治問題の種としての存在は 当の黒松にとっても迷惑な話ではないだろうか

 

 もし新庁舎のシンボルとして考えるならば 別の位置に移植することを提案したい

 たとえば箕瀬側のエントランス部分あたりの方が より相応しいように思える

 そうなると移植費用と今後の保全費用をどうするのか という当初の問題にたちかえるわけで

 建設委員会も市役所改築問題では 今までの段階でかなり切り詰めた方向で了承しており

 おいそれと賛成というわけにはいかない

 

 結論からいえば「助ける会」が全てとはいわないが 応分の負担を表明すれば

 前進するのではないだろうか そして時間が経過し その方向の正しさが

 全市民に認められれば 別のかたちでの費用負担の方法もありうるかも知れない

 とくに移植にかんする分については地権者も交えて様々な考え方ができそうだ

 

 伐採派と保全派との対立は やや感情的になっているきらいがある

 市当局や建設委員会にしてみれば パブリックコメントという手続きを経て

 とくに異論が出ない中で決まったものであり 何を今更という思いがありそうだ

 また地元といっても 温度差があり必ずしも固まっているわけでもない

 さらには次期市長選に関連した動きだ というキナくさいウワサも耳にしている

 以前には水源・文化財というかたちで リニア飯田駅の設置位置要望を展開しただけに

 市長サイドも対応に苦慮しているようだ ただ今まで問題にならなかったのは

 それだけ一般市民にとっては意識する対象ではなかった ということは言える

 

 地元メディアの後押しもあり 今こうしてあらためて眼にしてみると見事な黒松には違いない

 機会をみて あちこち聞いてみると その思いはほぼ共通するもののようだ

 さらに価値の考え方としては 剪定保全費用が年間30万円かかるとするならば

 100年間で3000万 200年では6000万円とも 経済的価値を計上できないこともない

 また移植がうまくいくか と心配する向きもあるが 最善を尽くしてダメならしょうがない

 それが運命だとあきらめるしかない 移植しなくても上記のようなストレスを受けるわけで

 ここは姑息な方法で将来に禍根を残すよりも 市民全員が納得し 盛り立てる方向で

 事が進むことを望むものである

 

 

*

追補3/黒松・ホワイトナイトの出現

(2012・8・30)

 その後 TBS系「噂の東京マガジン」での取材で 全国放送され さらに騒動は有名となった

 時間を経て 1級河川・源長川上への道路移設に伴う 既設暗渠の構造的検討がなされたが

 その結果 強度不足が判明 ただちに補強工事の概算が議会建設委員会に示され それを受けて

 委員会では実現不可能として伐採の方向を再度決定した そこで「助ける会」では急遽

 署名運動を開始したのだが その矢先 飯田市は市内医療法人への移植を了承 と発表した

 その中核医療法人が現在建設中の記念庭園に譲り受けの提案がなされたらしい

 ここにおいて事態は急転直下 一件落着となった

7月下旬 アンカーと支柱を設置して 根の掘り出し開始

土を埋め戻しして 養生完了

 

 ただ地元紙によれば 「助ける会」の反応には とまどいも見られたようで 会長の談話では

 費用を全額負担しての移植も申し入れたようだが 市側は聞く耳を持たなかったという

約1ヵ月後の8月末 いよいよ移植準備 レッカーにて トラックに積み込み

 

 もっとも それが何時の時点であるかは不明で 常識的に推測すれば

 伐採の決定時には そういう選択肢はなかったようだから それ以降ということになろう

 さらに これも推測ではあるが 移植話は水面下でかなり進行していた と解釈すべきだが

 おそらく それらの経緯も今後明らかになることはないだろう

 また署名も約1000人分が集まったというが それも含め ここまでは最早どうでもいい些末な話

それから 3ヶ月 母親が転倒し胸部圧迫骨折 救急車で輝山会病院に入院 図らずも黒松に対面することになった 

一部 緑の葉だが大部分が茶色で うーんちょっとキビしいか

それはそれとして この病院建物(竹中工務店の設計ときいたことがある)は好き

(2013・12・11)

 

 頭の固い市役所と市会議員 それらに果敢にも反旗を翻した1人の男 そしてそこに現れた

 ホワイトナイト という 図式の新しい物語が 将来歴史として共有されていくのかどうかは……わからない

 

消えた黒松・最終章

(2014・9・24)

 先日近くを通りかかったので その黒松を訪ねてみた

 しかし黒松の姿は影も形もなかった

 枯葉ばかりとなってしまったのか 伐採・抜根・整地され その位置すら確認できなかった

 筋書き通り という見方があっても不思議はないが 上記のような物語となることもなく

事件は終わり もはや市民にとっては かすかな記憶が残るのみ となってしまった

 

 

追悼「記者桜」

(2015・3・3)

左が在りし日の記者桜

扇町の愛宕坂最上部 3角形の土地に江戸ヒガンが1本あり 飯田で最も早く咲く桜として有名で

新聞記者が駆けつけるところから「記者桜」と呼ばれていたが 写真のように3年ほど前 大きく伐られてしまった

ようやく小枝が出だしたので ことによったら 花が咲くかもしれない と期待していた矢先だったが(右)

上部の建物の解体工事が始まった

さらに下部の構造物の解体が進み

ついに大きく伐採されてしまった まだ根っこは残っている

そして抜根され

数百年にわたって人々の目を楽しませてきた記者桜は 跡形も無く消えた

 

景観保全?羽場竹藪伐採

(2015・6・28)

先日自転車で羽場の坂道を下った際 妙にスッキリした感じ

後日確かめたところ 段丘の崖の竹藪が大幅に伐採されていた

その坂道の上に旧飯田城の御用水が通っていて ここにベンチが2脚の小公園

前々からこの竹藪が景観阻害を起こしていると思っていたので 上がってみると

確かに鼎段丘の西の端の眺めはいい ところが今度は右手の中央道の騒音をまともに拾うことになった

段丘の対岸から見ると見事に竹藪は消えたのだが 上の段の住宅にとっては むしろ迷惑な話かもしれない

 

 

中央道側道・法面防草シート考

飯田人形劇場裏から羽場公園附近までの上下線の側道法面に防草シート張り

作業が一段落したようなので様子見に出かけた

ここは下り線の上飯田バス停の少し手前 右写真は5年前の様子 冬だから雑草の繁茂はない

常緑の針葉樹(ヒノキのようだ)が育っていたが大胆に伐採している

さらに進んで羽場1号公園附近 公園に面する部分では 樹木はそのまま 多少考慮はしたようだ

2年前の右写真では樹木帯はずっと前後に続いていた

羽場公園周辺は道路面が低いため側道法面はない ここから上り線方向へ

しばらくは側道との高低差は少ないが だんだんと高くなって擁壁上に法面

これも5年ほど前の写真 ほとんどの樹木が伐採されている

上り線・上飯田バス停附近も同様

出発地点に戻った上り線ガードから

*

以上スッキリした側道法面景観が出現したのだが 何か割り切れない思い

定期的に雑草を刈る手間を考えれば わからないことはない

ただ二酸化炭素の固定と酸素供給という緑化機能が失われることへの素朴な疑問

植物の蒸散作用はなくなり まともに太陽日射を受けることでの周辺気温上昇の恐れ

また将来劣化が予想される防草シートは その際には大きな景観破壊につながりそうだ

理想的には防草シートに替わる 太陽光発電兼用のものがあればなあ と思ったりした

(2015・8・4)

電線鳥除けワイヤー装着

最近よく見かける電線に装着された物体 先日の地元TVニュースで烏除けの装置と報道していた

道路や建物へのフン害を防ぐのが目的で

うちの近所でも中部電力関連の工事業者が鳥除けワイヤーを装着中

左は太陽光を反射し 右は逆光状態での見え方 小鳥が留まっているように見えないことはない

そもそも電線という存在自体が景観的には問題なのだが

さらにワイヤー装着部品がそれに輪をかけてしまうのではないか

(2017・1・10)

 

飯田駅舎経年変化

ここへきて屋根の劣化が目立つようになってきた

3代目の駅舎は平成4年に改装されたもの すでに25年が経っている

これは8年前の姿 光線の具合か デジカメの特性か ピンク色になってしまった

完成当時も鮮やかな赤い色に賛否両論だったが 退色傾向の強い赤がよく今までもったもの

1日の乗降客が1000人に満たない状況の中で さあどうするJR東海さん

(2017・1・29)

それから1年半 ついに屋根塗り替えの工事足場が設置された

その間 屋根はますます白くなっていた

駅舎自体にも仮囲い

外部足場に加え 屋根足場が組まれ

下塗りが終了した模様

そして上塗りも終わったようだ

鮮やかな赤い色が戻ってきた

(2018・8・7)

そして化粧直し完了

夕方近く最後の足場と仮囲いが解体された

翌朝 8時 快晴に恵まれ朝の光を浴びた駅舎を確認に

それにしても強烈な朱色 朝の太陽の黄色味を帯びた光線でオレンジが強調されている

ちょうど登校時間で 近くのバス停に向かう生徒

駅のバス停からも 飯田風越高校の生徒の通学風景

(2018・12・6)

追手町一丁目ビル外壁落下

図書館の帰りに通りかかったら 落下物注意の立て看板

対面の伊福屋さんに聞けば 夜11時ころ大きな音とともに外壁が落下したという

幸いにも事故には至らなかった模様だ それから1ヶ月半にもなる

ビルの南西部の隅には下地とともに落下したタイル外壁 片付けすらも進んでいない

東側の一部は使われているようだが どうも区分所有のビルらしく

西側の大部分は空き家のような感じもする これだけの落下に留まらない可能性もあり

そうなると足場を掛けての大規模補修が必要となる 金額的にも相当なものになりそうで

そのあたりが時間がかかっている理由かもしれない 市街地では今後あちこちで起こりそうだ

(2017・12・28)

それから数ヶ月 ようやく外壁補修工事が始まった

(2018・4・26)

1ヶ月ほどして補修工事が終了し 足場が撤去された

落下した部分と今後落ちそうな部分を窯業系のサイディングに張りかえたようだ

やはり3軒の区分所有らしく 真ん中の空きビルは最低限の補修

北側と東側部分については全面的に補修を行なっている 

ここまで落下事故が起こってから7ヶ月を要している

(2018・6・7)

知久町空き店舗外壁落下

追手町のビルにつづき 知久町の空き店舗でもモルタルが落下

元は和食の店舗だったが永らく空き店舗 早速業者が足場をかけ 修理の体勢

角の部分はすでに板金で修理した形跡 同じような応急修理か

2月10日すでに修理を終わり 足場も撤去されていた

(2018・3・1)

リニア駅ワークショップ

30数名の参加をえて市役所3階で開催されたワークショップ 若い人から年配まで多様な顔ぶれ

なんで今まで こうしたワークショップが開かれなかったか

会議といえば各界の代表に2・3の公募を加えた委員会方式ばかり

つまりは進行役のファシリテーターが育たなかったからのようだ しかしこれからは そうはいかない

職員の持つべき能力として トレーニングしていく必要がある

4つのグループにわかれて意見を出し合い 最後にまとめ 若者たちが立派に任を果たしていた

5回を予定しているというが 今後が楽しみ

(2018・3・15)

 

旧三州街道竹やぶ伐採

久米路橋の正面 旧三州街道の上り坂(推定)に面する竹やぶの伐採

以前の同じ場所だが これは10年前の写真だから もっと大きくなっていた可能性もある

今や荒れはて半通行不能状態の小道だが 以前とくらべスッキリした

それはいいが このまま竹を放置されては景観上タマラない

(2018・5・17)

その後 若竹が成長 心配することはなかったか

(2018・8・7)

 

里山景観共同体

最近読んだ景観論について感想をまとめておきたい

「景観共同体としての地域 里山景観を持続させる権利」

松本梓川在住・宮守代利子さんによる 博士論文の加筆である

古希をすぎての学位取得は 本人も喜びであったらしく 上製本

栞紐(スピン・リボン)付きで格調高い 自家出版のようでもある

 

もともとは長野県北部・中部の入会地の研究がスタートである

戦後社会の変革の中 耕地組合さらに財産区・自治会・組合と

それ自体も変化を余儀なくされると同時に 観光産業などへの

開発の波への対応 さらには NPO・NGOの風景地保全運動を

見て 環境権つづいて景観共同体という概念に至るストーリーだ

 

それは理解できるが 突然でてくる 景観=環境 という考え方に

賛同することは難しい あくまでも景観は環境の一面であって

イコールではないはずだ ここでは欧州の「ランドスケープ条約」

を参考に ランドスケープ=環境 と解釈しているが 強引すぎる

 

また景観という概念についても いくつかの類型が考えられる

例えば 都市景観や農村景観 あるいは自然景観などがあるが

上にあげた 景観共同体 というものがある と考えるのであれば

それは まさに社会全体を指すものであり 入会権を起源とする

村落共同体などにだけ規定するには いささか違和感があろう

 

したがって 以上のような共同体を対象として イメージするならば

里山景観について と限定的な意味で使ってもらいたいと思った

また入会集団での全員一致 という意思決定の慣習にも言及して

拙速な多数決による政治決定に対し 時間をかけた合意形成に

努力すべきだ との結論については 諸手を挙げて賛成したい

 

(2020・3・24)

 

 

 

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