聖地感覚体験

補足/信仰対象としての巨石 →jump 2011・12・28

1) 聖地という存在

  聖地として意識する場所は大きく二つある

  本来の「神聖な地」にくわえて

  個人的な「憧れる地」あるいは「一度は行かなければならない地」でもあるが

  昨今は、スピリチュアル体験ができる場所、神秘体験ができる場所という

  意味が強いようで パワースポットブームという社会現象にもなっている

  そんな聖地という存在を景観的に考えてみたい

 

2) 様々なパワースポット 

  上記にくわえ ストレス社会を反映して 癒し体験・リラックス体験などの

  一種の感動体験を起こさせる場所として 古くからの神聖な場所

  つまり神社・仏閣などの信仰空間があげられるが

  近年話題になるのは説明できない何らかの力を自覚するパワースポットである

  よくいわれているのは“気”と称するもので ややオカルト的に見られてはいる

  古来からの風水と呼ばれる思想も 気の流れを重要視するもので

  さらに気功という 気の流れをコントロールできる技術もあるらしい

  科学的な証明は今後どうなるかわからないが

  一説によれば 生体磁気に関係する微弱な電気的刺激が

  生体電気反応で動く脳細胞に働きかける という ありそうな話である

  “気”という点からは有名なパワースポットが近くの大鹿村に存在しているらしい

  大鹿村と現在は伊那市となった高遠町の境 秋葉街道の分杭峠近くの

  いわゆる「ゼロ磁場」で なんでも中国の有名な気功師が発見したのだという

  磁場がゼロとは 何の意味かはわからないが

  あちこちから訪れる人も多いようだ

 

3) シャーマニズムの世界 

  上に見たようなスピリチュアルな体験を欲するのは

  何らかのかたちでの自己への利得を望むためでもある

  その根源には占いと共通する運命論が横たわっているのではないだろうか

  もともとこの宇宙そのものが偶然に生まれ われわれ自身が偶然の中で生きている

  それら偶然性あるいは 逆にいえば不確実性の研究もなされてきているようだが

  ほぼ数学的な確率論で説明されているようだ

  ただ確率ということは 運不運の問題で それは人類が社会性をもった段階から

  つねに意識されてきたことであろう

  地震や津波などの大災害に遭遇する例を見るたび

  あるいは事故報道に接するたびに その運の悪さに同情せざるをえない

  逆に宝クジに当選したり 考えてみれば社会で成功することも

  運の占める割合が高そうだ 「運不運のベルカーブ」 とでも言えようか

  原始社会においては 今以上に気候変動・気象現象をふくめて

  命にかかわる事態は多かったはずで それが切実に感じられたのではないか

  そこにおいてシャーマンが登場する

  ある意味敏感な感受性をもった人たちの言動が

  個人にとっても社会にとっても必要とされたのだ

  それが原始宗教の始まりと考えたい

  現在にも生きる恐山のイタコあるいは沖縄のユタ・ノロの世界である

  と同時に「祈り」あるいは「祭祀」という概念も生まれたように思える

 

4) 信仰空間とゲニウス・ロキ

  「祈り」や「祭祀」においては場所が必要で

  次には常設のそれにふさわしい場所が求められる

  さらには神を呼び寄せるための何らかの依り代が要求されたと想像したい

  ここにおいて景観的要素が顕われてくる

  一般的にそれは御神体と呼ばれるもので

  山や滝 巨木・巨石など非日常的な対象で 今も神聖とされているものがある

  あるいはシャーマンによって選定されたふさわしい場所が聖域となる

  神籬(ひもろぎ)と呼ばれる神域であるが

  その選定においては 相当に景観的要素が多かったものと思われる

  先にあげた風水思想は そのあたりをパターン化したものではないだろうか

  また万物の恵みの根源としての太陽信仰も世界各地で認められている

  とくに冬至の太陽の光は古代から重要視され、各地の遺跡にその痕跡がある

 

  もうひとつゲニウス・ロキという言葉がある

  地霊と訳されるローマ時代からの その土地の持つ魂のようなものだそうだが

  ジェイン・ジェイコブスのいう いわゆる場所の記憶といわれるものは確かにある

  山道の果ての少し平らな場所に あきらかに人工的と思われる石垣の痕跡

  そこにかつて人が住んでいた その生活のオーラを感ずることもままある

 

5) 名所スポットの成立

  とくに信仰としての山を考える場合には

  むしろ修験道の行者たちの修業の場としての聖域が

  一般化して神域となるケースが多そうだ

  いずれにしても長い歴史の中で 聖域はより演出が繰り返され

  聖域としての条件を増していくようだ

  情報が少ない時代あるいは社会では

  最初の「一度は行かなければならない場所」がまさにこの聖域となった

  それは社会の安定、経済的な余裕とともに 聖域は名所として認められ

  具体的には 宮詣であるいは寺詣でとして定着したように思える

  さらにそこを訪れるための巡礼道が設定され 霊場巡りが盛んになったようだ

  そこにおいていわゆる物見遊山が始まったものと考えたい

  江戸後半での七福神巡りなどは 祈りというよりも観光要素の方が多そうだ

  しかし遍路道や熊野古道などは そういった物見遊山的なものとは違い

  ある人達にとっては まさに死出の旅としての意味合いもあったことを

  付け加えておくべきであろう

 

6) 聖地感覚の非日常性

  景観的に考えれば 聖地としての条件は

  安定した美しい風景が第一とされよう

  いわゆる「御来光」を神々しく感じるのは現代人でも同様であるが

  この場合はむしろパノラマ景観の中での経験が雰囲気を盛り上げているようだ

  一方でシャーマニズム的にみれば むしろ逆に荒々しい風景

  閉鎖された空間 なにか物の怪が出そうな場所がふさわしいのかも知れない

  神社などの鬱蒼とした杜の中 音のないひんやりとした空間が

  非日常性を感じさせ気分をリフレッシュさせる効果があるようだ

*

2009・11・20

 

7) 御神体…信仰対象としての巨石

  最近読んだ岡田謙二著「日本のパワースポット案内 巨石巡礼50」は

  以上の意味からは示唆に富んだ写真集である

  前作に続き自身のホームページの単行本化だが 今回カラー化されて迫力が増している

  とくに興味をもったのは いわゆる信仰空間 その中でも信仰の山とされる山頂・中腹には

  御神体としての巨石が存在する例が多いということである

  山自体が御神体として有名な奈良県の三輪山も 山域は撮影禁止となっていて

  詳細は不明だが 資料によれば山頂ほかに磐座があるという

  別項で 仰ぎ見る山自体が信仰の対象になりやすい と述べてはいるが

  元はといえば御神体としての巨石があって さらに山容の景観的印象が

  それを補強してきた とも考えられる さらに研究課題としておきたい

(2011・12・28)

 

 

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