町内細見:大久保町

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師走もちつき大久保町

女性陣は 豚汁の準備

男性陣は もち米を羽釜の上 2段の蒸し器で蒸し 順番につきあげ

なお道具類は すべてレンタル

丸めて きなこ餅・ごま餅・あんこ餅で 早めの昼食 そのあと切り餅をつくり 町内全戸に配った

(2024・1・11)

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黄色で囲まれた部分が行政上の大久保町 緑の部分は段丘傾斜地 

つまり飯田台地の突端に位置している 大クボの窪がどれを指すのかは不明

市役所をはじめ 公共施設も多いが 都市計画の用途地域は住居地域(200/60)となっている

 

知久町3丁目から市役所裏通りを入っていく

王竜寺川の暗渠をこえたところから大久保町

左に市役所庁舎 右に同じく駐車場

左 王竜寺川 右はその逆方向 水の手の坂道からの動物園脇を通ってのT字路

市役所庁舎の裏側を駐車場から

市役所は昭和36年に34年廃校の旧大久保小学校跡地に新築移転

石碑の裏側に 当時の百日紅と大ケヤキ

 

今度は逆に南方面から市役所裏通りを辿る

 

左に新設の市役所駐車場 その奥は社会福祉施設 「はなみずきの郷」

市役所裏通りは突き当たって2つに分かれ

東方向は国道 飯田大橋の南詰に下る坂道(高さ5m)

右方向は箕瀬3丁目に通ずる細道 クルマ通り抜け不可

右に市役所新設駐車場

ここは旧専売公社の倉庫ほかの敷地で

昨年5月の発掘では縄文から弥生 平安までの遺跡が発見されている

 

さらに北方面に進み 「はなみずきの郷」 の裏側に 箕瀬2丁目方面への細道

クルマはなんとか通過可能 途中右手に市天然記念物のハナノキ

電線との関係で無惨にも大枝を半分切られたが 見事な紅葉 ただし落葉が大変

 

市役所裏通りを3階から北側方面の景観 右手奥に市役所

さらに北方面に進むと十字路

東方面へは国道の信号を越えて愛宕神社が突き当り

西方面は信金事務センターで突き当り

 

十字路を突きぬけ さらに市役所方面に進むと 左に箕瀬1丁目に抜ける小道 クルマの往来は多い

もう30mくらいで同じように箕瀬への小道 クルマ通り抜け不可

昭和36年の集中豪雨で源長川が氾濫し市役所裏通りの橋が落ち その後暗渠化

その上部を児童公園とした

源長川の箕瀬部分の屈曲部 なぜここで大きく曲がっているか

人為的に川を付け替えたような気がする

遺跡での水利用を考えると もう少し近い部分に川があったはず

地形的に点線のような流路を推定したい

 

 

愛宕神社方面

 

問題の大きな窪地部分の入り口

現在は市役所職員の駐車場になっているが

大昔には源長川はこの部分に落ちていたのではないか

飯田大橋ができる以前からの小道 左は市役所敷地に至る北方面

右写真は国道を斜めに横切る南方面 今は市役所職員の通勤道路

国道との交差点 右側に国の合同庁舎

ハローワーク・法務局・自衛隊事務所が入居

国合庁の裏手には拘置所の高い塀

ここにも市役所職員駐車場

拘置所の裏手は崖地 鼎方面の眺め良し

職員駐車場の奥が愛宕稲荷神社

その鳥居右手に細い路地

クランクして突き当り

左写真の古い家は大正の詩人 日夏耿之介の旧宅

その昔 愛宕神社を散策する品のいい老人を見かけた記憶

 

なお愛宕神社は応永年間(15世紀初め)坂西氏の居城だったという

また秋季祭典での8ヶ町のうち大久保町は最も新しい氏子

また表徳名(町青年衆の呼び名)は龍翔青年となっている

その昔伝馬町に移転する前にあった龍翔寺に由来するらしい

旧龍翔寺の位置については愛宕神社という説と現在の国合庁のあたり といろいろ

 

今度は国道沿いに歩く

飯田大橋を北上 正面が国合庁

飯田大橋の下の窪地は 前述の市役所職員駐車場

右写真では左の4階建てビルが国合庁 正面に拘置所の正門

国道を北上 左に市役所大ケヤキ 東側は駐車場

その手前の裏通りへの通路 細くて時々タイヤを側溝に落とすクルマあり

右手には四季の広場に降りる石段

そして市役所正面

 

今度は北側から国道を逆方向に歩く

国道からの東方面 右手が駐車場 その奥に動物園

90度右折 交差点から南方面 右手が市役所 左手が駐車場

市役所大ケヤキを見て 道路を挟んで向かいが駐車場

その駐車場の南側の大きな窪地に扇町公園

通称 四季の広場 この下で王竜寺川と源長川が合流

左上に動物園 右手の上に愛宕神社

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2009・1・12

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大久保町アーカイブ

(2013・5・23)

江戸初期17世紀前半の古地図より 現拘置支所のあたりが龍翔寺のようだ

 

飯田刑務所は明治19年に開設

大久保小学校は明治41年に開校となっている

大久保町という町名が出現するのはそれからかなり遅く

大正7年の記録のさらに数年後ということである

 

昭和5年の住宅地図

昭和22年9月撮影 米軍航空写真より

中央が大久保小学校

「長野県市街地図集」昭和42年刊より

飯田大橋と羽場坂バイパスは工事中(昭和43年開通)

昭和後期の飯田市の道路地図から

昭和63年の航空写真 「平成元年 飯田・下伊那航空写真集」より

 

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大久保町グラフィティ

(2013・6・1)

昭和36年大久保小学校跡地に飯田市役所が新築移転

その際市民に配布された風呂敷 紺色の木綿製の大判

飯田刑務支所正面

飯田刑務支所は明治19年開所

「扇町の記録と文集」昭和57年刊より 2組池田さん提供

「伊那」平成19年3月号(飯田大火60周年特別号)より

飯田大火の際には しばらく避難所として使用されたという

大久保小学校は明治41年開校

当時は3年生までが浜井場か大久保 4年以降は追手町の本校に通ったようだ

 

愛宕神社祭礼スナップ

旧1組熊谷さん倉庫付近から知久町方面(左)

浦野医院さん前から大久保小学校方面(右)

愛宕神社方面から現在の信金事務センターの辻(左)

愛宕神社境内(右)

左が大久保小学校 右が旧1組熊谷さんの倉庫

 

36災の記録

「写真集 思い出のアルバム 飯田の昭和史」昭和58年刊より

『ふるさと写真館「飯田」』昭和63年刊より

箕瀬からみた源長川の氾濫

右手に大久保小学校グランド(左) 奥に大久保小グランド(右)

箕瀬からみた源長川の復旧工事(左) 橋の復旧工事(右)

飯田歴史研究所収蔵写真より

 

大久保町西側の新問題

(2013・6・11)

予想していたこととはいえ やはり400mのロングビスタが無くなったのは寂しい気持ち

今はまだ工事用の仮囲いだが 将来は高さは3倍ほどの壁となりそうだ

クルマの通行にも変化が出ていて なんだが孤立した島のような感じ

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下の写真はは8時10分ころの合同庁舎の交差点風景 市役所職員駐車場への右折車両が並ぶ

ここは直進車も多く 間隙を縫ってあわてて右折すると 信号待ちのクルマに接触しそうになる

秋には箕瀬1丁目の王竜寺川の橋が掛け替えで通行止めとなるという

とくに箕瀬1丁目には二つの寺と保育園がある ここへの北側からのアプローチは

知久町3丁目を下り 途中を右折して 王竜寺川脇を今度は上る必要がある

この道筋は現状でも狭く かなりの混雑が予想される

さらに現在の北側からの市職員駐車場へのクルマも 合庁前交差点に廻ることになり

上記の事態はさらに深刻化しそうだ 橋の架け替えを通行止めせずく 2度に分け

交互通行をしたらどうか と先日の地元説明会では提案したが検討することもなく

できない と一蹴されてしまった

 

大久保町 空き家事情 (完全版)

黄色で囲まれた部分が行政上の大久保町 緑の部分は段丘傾斜地 

つまり飯田台地の突端に位置している 大クボの窪がどれを指すのかは不明

市役所をはじめ 公共施設も多いが 都市計画の用途地域は住居地域(200/60)となっている

ご多分にもれず高齢化も著しく空き家も発生しているが 繁華街にも近く便利なため

その形にはさまざまなものが見られる ハッチが空き家 P は解体後駐車場

左は団塊夫婦が母親同居のため転居 そのまま中学生4人家族が入居

右は高齢のおばあさんの転居後を大改造 小学生6人家族が入居

左は団塊一人暮らしが入居 右は高齢夫婦がそのまま入居

青果問屋転居後 1階自動車部品会社 2階住宅に転用

右はビジネス旅館の空き家

左は司法書士事務所の空き家 右も同様だが家主は栃木から時々帰宅

左は都会暮らしの別荘替わり 時々尺八の音色 定期的に管理を委託

右は完全空き家 1年に一度庭師が剪定

左は別に住宅を建設 定期的に管理 お年寄り施設入居空き家

飯田拘置所の崖途中の完全空き家 右はアパート空き家

左は売り出し空き家 右はその隣の完全空き家

空き家解体後は市役所・信金職員の月極め駐車場

(2015・11・15)

 

日夏耿之介旧宅訪問

日夏耿之介は明治・大正のゴチック・ロマンティシズムの詩人として有名である

飯田市知久町3丁目に生まれ 早稲田大教授を勤めたが 飯田市に戦時疎開後

再び上京 青山学院大教授となり 昭和28年に第1回の飯田名誉市民となった

同31年脳卒中のため帰郷 飯田市大久保町に居を構えたが 昭和46年に81歳で没した

長姫神社に接して 移設された柳田國男の書斎とともに 日夏耿之介記念館が開かれている

当時 大久保町の旧宅の移設が検討されたものの ほぼ同じ間取りの木造建物を新築

こちらが愛宕神社境内に接する大久保町の旧宅の現状 ブロック造の書庫が付属している

飯田市の持ち物で 一時は人形劇カーニバル専従の市職員・寺谷純一郎さんの住宅だった

(寺谷さん自身 独り人形劇団・寺谷しょう劇場を主宰していた)

3人の子どもの上二人が我が家と同学年だったため数回お邪魔していて

書庫に窓を増やして 子ども部屋とする図面を 当時作成している

その後 寺谷さんは出身の松山に帰り 現在は空き家で いささか無残な姿

 庭には増築のプレハブ勉強部屋がそのまま 家屋が見えないほど庭木が繁茂 右写真は建物の東面

その昔 愛宕神社に参拝した際 白足袋を履いた品のいいご老人を 時折見かけたものである

今回 飯田歴史研究所の樋口研究員と内部を見る機会を得た

上は実測平面図

玄関は和風住宅の雰囲気が濃厚 2尺幅の板3枚をタテ使いした式台から3帖の前の間へ

右 その奥の6帖はタタミ床の間 その右に書庫への入り口

9帖のLDKは寺谷さんが改装したもの もとは4帖半の和室茶の間と同台所だったようだ

右写真は12帖のコンクリートブロック造の書庫 右手奥が本宅との通路

庭にはスズ竹(根曲り竹)が繁茂 左写真はLDK側から4帖半を通して6帖の客間方向

右写真は逆に4帖半とLDK方向 右はプレハブの4帖半勉強部屋

(2016・2・11)

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