タテ長フォト構図

 

屏風絵の鑑賞について →jump

※歌川広重の風景画構図 →jump

 

第1部 パノラマ写真のフレームワーク 第2部 パノラマ屏風写真  →jump

1) タテ長風景写真集

  最近 ピエ・ブックスの 「世界の街道」 という写真集をめくっていて 気づいたこと

  この写真集は上のように極端なタテ長サイズで 見開くとほぼ正方形になる

  一般常識から考えれば風景写真 とくにパノラマ写真はヨコ長サイズが普通だろうと思うのだが

  ところが実際に編集された内容は 道を俯瞰する写真が多く そして迫力満点

 

2) パノラマ写真の不完全燃焼

  いままでたくさんのパノラマ風景を撮ってきた

  パノラマ景観は別項にもあるように 風景のなかでも最重要の景観で

  あちこちのパノラマ風景を並べて見るものの 常に煮え切らないものを感じていた

  どうも実際の印象と写真化されたものに ズレがあるような気がするのだ

 

3) パノラマ画面の遠近感の喪失

  パノラマ写真といえばヨコに広い画面で不要な上下をトリミングすることが一般的である

  ところがその段階で遠近感を失うのではないか たしかにヨコ方向の情報量は多いものの

  近景から中景・遠景・さらに空へと連続する立体感を なくしてしまうのではないか

  そんな疑問から パノラマ写真のフレームについて考えてみた

  なおスタディに使ったパノラマ風景は 先日の写真館経営 SSさんへの景観インタビューで

  「あそこ一番いいよね」 と大いに盛り上がった 鼎の願王寺(かやがき)から

  坂道を少し下って曲がり角 松川を挟んで 飯田中心市街地の段丘の遠望である

 

4) 画面のタテ・ヨコ比率

  今までのディスプレイのタテヨコ比率は 3:4 (1:1.33)であったが 最近は地デジ対応で

  9:16 (1:1.78)が一般的になりつつある

  歴史あるカメラのフィルム画面について確認してみると

  いわゆる大判カメラでは 「エイト・バイ・テン」と呼ばれる 8インチ×10インチや

  「しのご」と呼ばれる 4インチ×5インチの 1:1.25 である

  中判カメラでは 6cm幅のフィルムを使って

  ヨコ方向が 9cmの 1:1.5 7cmの 1:1.17 6cmの 1:1 4.5cmの 1:0.75 である

  小型カメラでは 35mm判と呼ばれる 2.4cm幅のフィルムを使って

  タテ方向が 24mm ヨコ方向が 36mmの 1:1.5 が普及していた

  なお 24mm×18mm のハーフサイズというカメラもあった この場合は 1:0.75 である

  ちなみに一時期製品化が進んだAPSシステムでは

  APS-Cは35mm判と同じく 1:1.5 APS-Hでは 1:1.78 の地デジサイズ

  さらにパノラマモードの APS-Pでは 1:3 となっているようだ

  中判カメラの 正方形のロクロク判は トリミングしやすい という点からプロの愛用者が多く

  ヨコ方向の情報量が多い 集合記念写真の職業写真家は ロクキュウ判を使うようだ

35mm換算で 37mm程度の準広角でのパノラマ ピクセルは 640×480 (4:3)

同上 ピクセルは 853×480 (16:9) やや平板な印象

35mm換算で 111mm程度の中望遠での撮影 ピクセルは 640×480

同上 ピクセルは 853×480 1:1.78 (16:9) ここでも遠近感が薄くなる

 

5) 眼球構造と視野および遠近感

  別項で視覚の視野角について述べてきたが 考えてみれば眼球は円形である

  たしかに2個の眼球はヨコ方向に付いてはいるが 実際にモノを見るとき

  その2個は遠近感を得るための両眼視差に使っている

  2個の眼球が水平方向に離れていれば 多少は視野的には広くなろうが

  注視する視覚では 視野は円形になりそうだ つまり双眼鏡を覗く感覚といえる

  カヌーイストの野田知宏によれば カヌーで川を下っていて

  恐いのは水平方向に張られたワイヤーだそうだ

  つまり遠近感がつかめなくて 引っかかるケースがあり

  ワイヤーが見えたら 頭を傾けて 斜めに見るのだという

  そういえばヘリコプターの墜落事故でも 高圧線を引っ掛けるケースは多い

  テテ位置では近景から遠景まで 見渡すことになり そこでは奥行感が生じため

  遠近感はタテ方向に強く現われる可能性があるといえる

  それが いわゆるフィック錯視と関連しているかどうかはわからない

 

6) パノラマ風景でのフレームの検討

  そこで以下では 同じパノラマ風景をピクセル数を同じにして

  フレームサイズ変えながら その印象をさぐってみた

35mm換算で 100mm程度の準望遠での撮影 ピクセルは 640×480

同上 ピクセルは 853×480 1:1.78 (16:9)

同上 ピクセルは 480×640 1:0.75 (3:4)

やはりこのあたりが見え方としては自然なような気がする

  興味深いのは日本画の画面である

  書の世界のタテ書きから来たのかも知れないが 掛幅や障壁画・屏風あるいは短冊も

  基本的にタテ長である さらに色紙は正方形だ

  いやむしろ屏風絵を鑑賞するごとく 近くに立って首を横に振るような姿勢が

  パノラマ風景の画面と似ているようにも思える

さらに実際の視覚がどうなのかは よくわからないが

ピントのあった円形から 同心円状にボケを強くした写真を作ってみた

*

2010・10・28

 

第2部 パノラマ屏風写真 (2015・2・15)

上記場所の110度近くある視界全体を 広角で3枚撮って合わせたもの  枠があるほうが上記に近い表現

さらには上に述べたように準望遠で撮ったものを もっと枚数を増やして並べるのが正解のような気がする

(2014・12・28)

 

  村上隆が日本画の平面性を拡げて 「スーパーフラット」 というコンセプトに至ったのに対し

  チームラボを率いる猪子寿之は むしろ日本人は平面を立体的に見るようだ ともいっている

  なぜそういう文化ができたのか については説明を知らないが

  ふと上記のタテ長画面の鑑賞の仕方が そのあたりに作用しているのではないか とも思った

 

そこで屏風写真というものを作成 葉書サイズをタテ使いにして6枚組とした

なお使用機材は1600×1200ピクセルの一般的なデジカメで タテ位置の手持ちで撮影 編集した

  ただ北斎や広重の浮世絵風景画ではヨコ長画面が多い

 

  −最近読んだ北斎没後150年の企画展出版本においては

  画面のタテヨコについては言及していないが 西洋風景画を北斎自身が

  見ている可能性を指摘しているので そこで着想を得たのかもしれない

  なお広重はその時代よりも かなり遅くに活動している−

  いやむしろ安永年間(1770〜80年代)の秋田蘭画にはじまり その後の

  亜欧堂田善や司馬江漢などのいわゆる洋風画からの影響を受けたか

  ことによると秋田藩士・小野田直武に助言を与えたという天下の奇才

  平賀源内にまでいたることも考えられる

       (この項については 2015・7・16 2017・10・16 補記)

  歌川広重の風景画構図

  北斎とともに江戸後期の風景浮世絵の巨匠に歌川広重(1797〜1858)がいる

  周知のように「東海道五十三次」によりその名声を確立しているが

  1833〜36年にかけて発表された55枚のヨコ長版画構図シリーズである  

  広重の師は歌川豊広(?〜1829)であり さらにその師・歌川豊春(1735〜1814)は

  上記の明和・安永年間に輸入銅版画などから遠近法を学び すでにヨコ長版画を残している

  北斎がそれらを見ての着想から「富嶽三十六景」(1831)を表したのかもしれない

 

  そのあと広重は「絵本江戸百景」(1850〜1867)を発表しているが そこでは縦長判の

  見開きの2頁にわたり 横風景で江戸風景や文化などを描き その見所を解説している

  ただそこにおいては北斎に見られるような 絵画的な構図は意識されていないように思える

  パノラマ写真のような俯瞰構図が主体となっている

  むしろその後に発表した「名所江戸百景」(1856〜1858)の方にこそ大胆な構成がみられる

  そこでの判形は従来の浮世絵と同じ縦長で その意図がどこにあったのかは不明だが

  遠近法をより効果的に見せる という意味があった考えられれば面白い

 

   以上については専修大助教の若手研究家・阿部美香の博士論文「歌川広重の声を聴く」を参考にしている

      (この項については 2018・7・22 補記)

 

 

 

 

 

それぞれ36%に縮小しているが いずれにしてもモニターの画面には納まりきれないので 3枚づつ

雪を戴く南アルプスの遠望は 左から 仙丈ヶ岳・北岳・間ノ岳に農鳥岳が頭少し

 

  さらに私事ではあるが 室内自転車を漕ぎながら本を読むことが多いのだが

  その際 タテ組にくらべてヨコ組の本は どちらかといえば読みにくい感じがする

  慣れ親しんだ日本語の文章からすれば それも当然ではある

  もしかしたら そういった感覚が タテ長画面と平面立体性に関連しているのかもしれない

 

  なお屏風絵の鑑賞は それが季節を描いている場合は 時間経過をあらわす絵巻と同じく

  右から左へ進むというのが正しいらしい

  また別の例でいえば 大正から昭和にかけて活躍した 吉田初三郎のパノラマ鳥瞰図も

  タテに折りたたんだ観光絵図を表紙から 屏風状に左に開けていく形式が多い

 

  それら対し 現在の映画・TV・ビデオなどの パノラマ風景の水平パン撮影は

  左から右へ振ることが多いような気がする このあたりは左から右に進む

  ヨコ組の文字方向に あるていど馴れたせいかな とも考えるものである

参考までに実際の撮影ピクセルそのままの写真

画角から焦点距離を求めてみると 85mm(35mm換算)の準望遠に相当するようだ

 

段丘写真ミニ屏風 (2015・3・1)

上記屏風写真をA4判でプリントアウトして ミニ屏風を作ってみた

着彩地形図の真ん中あたりから眺めると けっこう臨場感を味わうことができる

 

追記・龍安寺石庭パノラマ鑑賞 (2015・3・12)

 

  最近「謎深き庭 龍安寺石庭」という本を読んだ 著者は元日経アーキテクチュア編集長の細野透である

  「虎の子渡し」説・「七五三」説・「黄金比」説をはじめ 古くから様々な解釈・謎解きがされてきたようだが

  そこでは著者自身の新説もくわえ 古今の石庭解釈論を55例あげて検討をくわえている

  

  十五石の配置についても 禅の公案や哲学的な意味を追求する向きも多いようではあるが

  どうもあまり突き詰めて考える必要はないような気がする つまりそこで表現したかったのは

  素直に考えれば「海景」で そのパノラマを庭に取り込もうとしたのではないだろうか

 

  景観工学の東工大・斎藤潮教授による「静視野」説は さすがに視野と視点の動きから

  その美的要素を検討していて 興味深いものがある また庭園学者・大山平四郎による「扇視野」説も

  上であげているような パノラマ的思考と共通する部分があるような気がする

 

  「中の間」からみると庭園の全体像は90度の範囲に納まっているようだが 縁側からは視野は140度以上ある

  当然それだけの視野は上で述べているように一度で見渡せられるものでなく 首を振って見るパノラマ風景となる

  実際には鑑賞者はタテ長で奥行感を味わいつつ 右に左にその枠を動かし その「時間」を体感するのであろう

 

  しばらくは京都を訪れることはなさそうだが もしそんな機会があれば 上のような視点で

  天下の名勝を味わってみたいと思うものである

 

屏風絵の鑑賞について (2016・3・4)

 

  板橋区立美術館長・安村敏信著 「ワイドで楽しむ 奇想の屏風絵」 を読み 思うところを記しておきたい

  これは東京美術の小型ムック 広げてわくわくシリーズで 古今の有名な屏風絵10点について

  大胆な折込でヨコ長画面の全体像を印刷し さらに細部をも部分拡大し その雰囲気を伝えようとしている

  実際われわれが美術館などで屏風絵を鑑賞するのと同じく同一平面上での全体像である

 

  ただ本来の屏風絵はタタミの部屋に屈曲して置かれているはずであり 座って観るものである

  また明るさの問題など 当時の鑑賞方法とは かなり異なっているはずである

  そこでできるだけ当時の生活環境を思い浮かべ 屏風絵の鑑賞について想像してみることにする

 

  まず置かれている部屋の広さである 六曲一隻の屏風絵ですら その幅は2間つまり 3m半くらいになる

  これが右隻・左隻と揃った一双となれば とても一般的な生活空間に置けるものではなく

  大名屋敷の広間やら豪商の屋敷の襖を取り払った空間でなければ 拡げることはできない

  つまり屏風絵はステイタスの象徴としての 超贅沢品として扱われたものであろう

 

  さらに前述の観る際の明るさの問題で 当時の貧弱な照明設備では夜間には多数の灯明が必要だ

  そんなことから ある美術研究家は昼間の障子越の光で鑑賞したのではないか とも言っている

  それにしても大きな部屋の奥であれば状態は同じことで 細部を観るには心許ないのではないか

  くわえて灯明のもとでの色彩も黄色味を帯びているはずで 現代人の観る色とは違っていたかもしれない

  いやもしかしたら 室外で鑑賞したことすら考えられよう

 

  もうひとつ疑問に感じる点は山折りの空白部の存在だ 屈曲する屏風絵は六曲であれば

  二曲づつの谷折りと2ヶ所の山折りで構成されている つまり板厚だけは空白ができるはずで

  その部分をどう見ていたか むしろ見えるものを見えないものとする日本人の文化特性から

  逆に無いものを有ると見ることができたのか あるいは上にあげたような明るさの不足が

  そのあたりの感覚にはプラスに働いていた可能性もありそうだ

 

  それと同時に考慮されるべきは やはり鑑賞の仕方だ 祭礼図や合戦図のように細かい人物の

  表情まで描き込まれた細部を楽しむには 明るさとともに かなり近づくことが必要となってくる

  床に置かれていれば 長跪(膝立ち姿)で右から左に移動しながら鑑賞したのであろう

  その場合 全体像は見えなくなり 山折りの空白部も あまり意識されないですむのかもしれない

 

  そこでは上述の別項で述べてきたような タテ長画面が意識されてくるのではないだろうか

  金沢の料亭では そんな屏風絵を和紙で反射させた蝋燭の光で愉しむ趣向が行われているという

  かすかに揺れる光の中で より幻想的な雰囲気が醸し出されることが想像される

  

 

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