景色の見え方

あわせて銀塩カメラ遍歴にもお付き合いください

補足・景観写真の要件 →jump 段丘写真ミニ屏風 →jump  ピープショー のぞきからくり →jump

 

松沢カメラショーケース

NIKON new F 白と黒の2台は知久町3丁目 松沢カメラのショーケースに ニコンS2とともに陳列中

(2021・9・9)

 

フィルムカメラ処分

新聞の折込チラシで イオン上郷店に出かけると 入り口脇で出張買取り中

3本の使用不能のレンズを引き取ってもらい 日を改めて 2台のカメラも お願いした

ボコボコになったニコンFのボディと棚の奥から出てきたコニカC35

  買取り屋さんの話では フィルムカメラは けっこう海外で人気なのだという

部品取りに使われることも多く 当時の工作精度・耐久性が いま評価されているらしい

(2021・6・6)

 

1) 視覚−究極のバーチャル世界 

  日常、気にしないでいる「見る」あるいは「見える」ということも

  実は人類の歴史以来の謎のひとつであったようだ

  今となっては 水晶体を通過した光を網膜上の錐体細胞と桿体細胞が信号として感知し

  視神経を通じて脳に送られ 最終的には後頭葉視覚野において総合化され

  視覚として認識される、というのは常識となっている

 

  ただそれを実体として把握するためには、様々な社会的経験が必要となるし

  脳内処理の関係で、実際とは異なる認識も生まれることになる

  錯視といわれるもの、あるいは恒常性に関するもの、さらには派生する

  心理的な効果などが言われている

  ここではむしろ忠実な世界の再現者であるカメラとの比較を通して

  景色の見え方を考えてみたい

        小学校3年の時 買ってもらった オモチャカメラ スタート35 ほんとはその隣にあった40mm2眼レフが欲しかったが

2) 視野と注視 

  様々な説があるが人間の視野は両眼で140度程度といわれている

  カメラの画角では 35mm換算で焦点距離数mmの魚眼レンズであり

  注視する場合には その範囲は2度以下で、同じく1200mmの超望遠レンズに相当する

  一般的には人間の眼は標準レンズ(50mm画角40度)といわれるが 現実的には

  準広角(35mm54度)から中望遠(135mm15度)の間を無意識にズーミングしているようだ

                    

  パノラマ風景を広角レンズで撮ったりすると 意外に平板でつまらない写真になることがある

  だから山岳写真の分野では 経験的に中望遠レンズを使うことが常識となっているようだ

        (レンズの焦点距離と画角および写真フレームについては別項目 こちらへ)

  さらに景観とは離れるが 接写の分野でも無限に近づいていく性能には驚くべきものがある

  (ただしデジカメでは接写性能は 眼に近いものになった)

  以上は画角から見たもので 人間の眼では焦点深度(望遠で遠くほどピントの範囲が狭くなる)

  の問題は起きない というか現実にはあるはずだが つねに注視の対象が動いているため

  感ずることがないようだ

       大学2年の時 買ったオリンパス・ペンW 結局 市川の質店で流してしまった 製造台数が少なく 今や貴重品らしい

3) 額縁効果

   上にあげた経験は ある枠を通して対象物を見る場合 さらに顕著に感じることになる

   建物の間から見る山の姿 あるいは屋根の上に見える山などは 通常よりも大きく見える

   つまり視界が制限されることによって 視覚は安定して対象に向うことができるのだ

   これがいわゆる額縁効果といわれるもので 山の端で感じる月の大きさも

   いろいろな解釈はあるものの 額縁効果としても説明できそうだ

木のおもちゃカメラ 大きい孔をファインダーにあわせると標準レンズ風 小さな孔では望遠風に見えるのが面白い

   また神社にある鳥居も 成立については諸説あるが 視覚的に考えると そこを通しての

   山や建物などの信仰の対象を大きく見せるため という うがった見方もできなくはない

   さらに交通事故・船舶・飛行機事故などでも問題になる コリジョンコース現象において

   中心視野と周辺視野との関係に加え フロントガラスあるいはキャノピーや操舵室の

   サッシ枠による 逆の額縁効果が負の影響を与えているのではないか とも考えられる

      数年後 新橋で買った ローライC35 ハードケース・ストロボまで揃えたが 女の子にあげてしまった 今やこれも貴重品

4) 立体視と遠近感

  立体感あるいは距離感は一般的に両眼視差を基本に 社会的な経験とを綜合化し

  実体として認識し さらに視点の移動を体感し 確実なものとする

  カメラの場合致命的なことは 望遠側に振れるにつれて奥行感が失われることで

  マラソンや駅伝などの実況中継などで 望遠では選手の差はほとんどなくても実際には

  相当な差がついているのは よく経験する

 

  あるいは新幹線などの列車を正面から望遠で撮ると 寸詰まりに見える

  つまり遠くの物体は 大きさがあまり変らなくなるので遠近感がなくなるのだ

  やはりここでも人間の視覚では 巧妙に脳の中で処理されるのか

  そういう事態は起こらないようだ

              はじめてのボーナスで買った ニコン new F 数回落としてペンタプリズムのケースはボコボコ

5) 光と色彩   

  カメラの絞りによる光量の調節は 眼では瞳孔によって行われるのだが

  ここにおいても無意識的に調節され しかも明暗に対する順応性は高い

  だから夕暮れ風景などの絞りの設定では 露光不足になる傾向が多かった

 

  接写においても光量の低下は著しく 困難をきわめた(これもデジカメでは解決)

  もうひとつ光の重要性として 光の波長成分によって感ずる色が異なることで

  緯度の高い地域と赤道に近い地域では 大気圏を通過する太陽光線スペクトラムが異なり、

  同じ色でも違った色となる

 

  日本の赤いクルマがカリフォルニアではくすんで見えるという話もある

  もちろん室内照明では 食べ物屋では肉類・魚類が新鮮に見える 赤味のある白熱灯を使い

  逆に緑を強調したい庭園灯は青みの強い水銀灯が使われる

  同様にトンネルの中のナトリウム灯の元ではオレンジ系は色が無くなりグレーとなる

 

  加えて色彩感覚は 錐体細胞の個人差もあって まったく同じとはいえない

  (極端な例では男子の5%をしめるといわれる色弱など色覚マイノリティの存在)

  しかも社会的な経験で様々な色を知るため 色彩感覚の民族差も大きいらしい ( 注1 →jump

  また保育園カラーと呼ばれる赤・黄・青・緑などの原色も 色彩感覚の学習途中の

  幼児にはわかり易い色だから ともいわれている

 

  一方レンズを通してのカメラでは 現像・焼付けという化学的な問題、

  デジカメでは感光素子の特性と制御ソフト さらにはプリント時のインク

  あるいは画面のRGB特性により 再現される色彩にもまた個差が生ずる

  つまり景観上は重要な位置をしめる色彩が 絶対的ではないということを

  常に頭の片隅においていたい

                飯田のカメラ屋の店頭で見つけた new F 憧れだったブラックをついに入手

6) 順光・逆光・時刻・天候

  太陽光線のあたり具合も 景観の印象を大きく左右する

  光面と影面のコントラストの強い順光では 立体感のある明るい景観となるが

  逆光では 平板で暗い印象になる傾向がある

 

  住宅展示場では 南に建物の正面玄関を向ける配置が一般的である

  つまりはその時間の太陽位置によって景観イメージが変化するということであり

  さらには天候によっても それが左右されることも考えておかねばならない

 

  ただし新緑の若葉 あるいは紅葉は むしろ太陽の光を透かした時の方が

  一層の鮮やかさを感ずるものではある

  この場合には逆光気味で かつ太陽は高い位置にあることが望ましい

      思いがけない入金で 高速バスで数奇屋橋のニコンショップへ  3台目の new F びゅく仙さんに贈呈して手元にはない

7) 風景写真と景観イメージの理想化

  しかしながら景観を再現する方法は 静止写真あるいは動画にならざるをえず

  景観イメージの共有も 便宜的にそれを使うことになり そこで様々な問題が生ずる

 

  たとえば景観○○景などと称して 印象景観地点などを募集する場合

  往々にして写真コンテストに変質してしまうことがよくある

  評価には トリミングによる作画の巧拙も大きく影響していそうだ

  また写真に写された風景が その周辺も同じだと理想化してしまう傾向もあり

  実際に行ってみると なあんだというケースは 静止画・動画にかかわらず経験する

※補足・景観写真の要件−上記の景観写真と写真コンテストとの違いについて

  景色をある空間で体験し綜合化(構造化)することを景観としたいのだが

  やはり景観写真としては その空間が想像できることが必要なのだと思う

  さらには その空間の物語性(ストーリー)がイメージできれば理想的といえる

  したがって その空間や時間を説明することが重要となるのではないか

  そこでは複数の写真があってこそ その関係性を想像させることにより

  景観構造が理解されるものと思われる だから組写真が必須の条件となりそうだ

                   (2016・8・10)

 

  それともうひとつ同じ様な点で重要となるのがスケール感のように思える

  「名建築は小さく見える」 ということがいわれる 写真で見知っている建築物を

  実際の眼のあたりにした時 意外にも小さく感ずるというのだ

  上で見てきたように 実際の焦点距離の変化を伴わない画角(視角)の調節が

  そのあたりに関係していて これが空間的な感動に影響をあたえるものと思われるが

  そこには眼球網膜上の立体映像と平面画面との見え方の違いもありそうだ

  しかし今はまだそれを明快に説明できない 今後の課題としておきたい

  同時に 実感したイメージを自分の言葉で伝えること さらにそのコミュニケーションを通して

  それらを共有し より感動を高めることが 景観意識の本質に関係していそうだ

 

2009・4・3

*

  視知覚についての補足

  

  最近読んだカリフォルニア大研究員マーク・チャンチージー博士による

  「ひとの目、驚異の進化」 は視覚を考える上で示唆に富むものだった

  そこではかなり独善的に進化論的視覚論を展開しているのだが 注目すべき点は三つあり

  ひとつは色覚について もうひとつは両眼視領域の問題 さらに錯視についてである

 

  まず色覚については 人間の肌色に着目していて

  霊長類の中で 色覚がない類は顔が柔毛に覆われており

  さらに顔が毛に覆われていない原猿類はメスにだけ色覚がある といい

  さらにオスにもメスにも色覚がある新世界ザルの特性を深読みし

  血流量の多さと血液の酸素飽和度の高低による肌色の変化から

  体調や感情を判断できる という点を指摘し 社会の発生を示唆していて

  さらには女性の子育ての上での必要性が

  上記色覚異常の差を生んだのではないか とも述べている

 

  次に両眼視の視野については 目が横についている動物と

  前に両目がついている動物について比較し 視野と両眼視領域の特性から

  前方の障害物を通してみる 透視能力が後者には備わっているとの見解を説明している

  それについて にわかには賛成はできないが そこでは触れられていない注視という行為

  遠くにピントをあわせるという立体視に有利な点を想像したい

 

  さらに錯視について それが生じるのは 時間的な運動予測を脳が行っていて

  それを本来立体空間の中で人体の運動感覚と総合化しているという

  目からの信号が脳内で総合化され意識されるのは約0.1秒後とされていて

  脳はその 0.1秒後を常に予測し行動指示を出しているといわれている

  それを静止した平面上の図形に見る場合 混乱することが錯視現象だというのだ

 

  たしかに武道家・甲野善紀さんがいうように 目の前のあらゆる情報から

  対象の次の動きを予想し 対処しているらしい というのはわかるし

  武道だけでなく スポーツの世界でも その予想がはずれたとき対応できない

  というのは これも想像できることである

 

  以上のうち とくに後者2点について むしろそれらを発展解釈してみたい

  それは人類の2足歩行との関連で なぜ人類が樹の上から降りて2足歩行を始めたかは

  諸説あって決定版はないようだが それが人類の身体構造の進化 ひいては言語などの

  社会行動の発展に寄与していった というのは よくいわれることである

 

  当然感覚器官にも それは及んでいて視覚にたいしても多大な影響を与えていそうだ

  「注視する‐遠くにピントをあわせる」 という点 逆に「凝視する‐近くのものを見る」 ということ

  それが自由自在にできる というのが人間の眼の特性なのかどうか

  そこから視知覚 さらには景観思考にまで考えを進めてみたい

(2013・1・10)

*

文化としての色彩感覚は神経生理学的な色彩知覚にくわえ 脳内心理学的な色彩認識

さらには言語学的な色彩表現の各段階があると言われている

例えば死語となってしまった「緑なす黒髪」 あるいは信号機の「青信号の青緑色」

などはそれらの総合された日本文化としての意味合いを持っているらしい

とくに緑や青系統は世界普遍的にその傾向が強いとされているようだ

(2013・1・23)

*

ピープショー のぞきからくり

最近読んだ 上記書名の本について 視知覚の本質に迫っていると思われるため 感想を記しておきたい

著者は絵本作家・吉田稔美さん その歴史から原理 さらに自作や アートとしての方向など網羅的な内容

ピープショーとは 蛇腹状にした何枚もの紙に風景など描き 片目で覗き込み 立体感を楽しむ手法である

ルネッサンス以降 遠近法の発明から それを使っての作品を経て 17〜18世紀に盛んに作られたという

実際に体験してはいないが 片目で見る ということ ある限られた枠の中で見る あたりが最も重要な点で

上で述べているように 写真撮影における 焦点深度や寸詰り感が 視覚として現れるということではないか

木製のカメラ玩具での ファインダーを覗いたときの 望遠レンズ風の見え方も その点から説明できそうだ

さらには バックライトを変化させたり 蛇腹を伸び縮みさせたりすると 奥の対象物が動くようにも感じるという

逆をいえば 動く映像という映画の発明は むしろそれだけで立体感を味わっているということかも知れない

(2020・11・26)

 

視知覚構造の一部体感

飯田市歴研の建築史ゼミでの宿題は 我が町を絵にすること 葉書大の用紙に飯田の段丘の平面図を手描き

2万5千の地形図に500mの方眼をひき 1/60000に縮小した

こんどはその立面図を と現場に折りたたみイスを持ち込んで1時間ほどスケッチ

段丘のほぼ中間に位置するパノラマポイントからは風越山から東の御殿山まで南面する約110度の大展望

 

できあがった絵は横方向に寸詰まりの様相 原因はすぐわかった

つまり対象を注視すると その部分は大きく見えるのだ 横方向は調整して描くものの

建物の大きさと縦方向はその修正が効かず そのままになってしまう

別項でも述べているように 注視する場合 35mmフィルム換算で 75mmの焦点距離の中望遠に相当しそうだ

その場合 水平視野角は30度ほどになるのではないか

だから110度の大展望を見渡す時には 首を振って全体像を総合しているのだ

結局それを再現・提示するには やはり動画で水平パンするしかできないのだ

これも別項でみているのだが タテ長の日本画(屏風絵・障壁画)はそのあたりを擬似的に表現している

ただ いわゆるパノラマ的な風景画は それはそれでいいのかな とも思った

(2014・11・27)

 

段丘屏風写真

上記パノラマ写真に飽き足らず わが町ゼミの宿題 5で さらにその表現方法に固執した

望遠側写真を張り合わせてパノラマ写真ができないか 今度は葉書をタテ使いで6枚に納めてみようとした

最初普通に撮ったのだが タテ構図にはできなくて デジカメをタテ位置で再撮影

当初 水平が出ないか とあれこれ思案したが そちらは手持ちでも大丈夫 むしろ重なりが十分とれず 3回目の撮影でやっと納まった

プリントの段階でインク切れと用紙切れ さらにはアングルを少し上げて作業を初めからやり直し と手間をかけて

ようやく6枚のタテ組葉書サイズに並べることができた これを わが町ゼミの宿題 5とした

全体で130度の視野を6つに分けているから 1枚あたりは約 21.6度となっている

こちらは風越山方向の2枚 視野は約43度 つまり ほぼ標準レンズの画角くらいとなっている

視覚対象は山容全体だから 見え方としてはこんな感じのようだ ヨコ方向 800ピクセルに縮めている

市街地中心部が視覚対象の場合には もう少し拡大して見ているようだ

これは撮影ピクセルそのままで2枚を合成し ヨコ方向 800ピクセルの部分で切り取ったもの

画角から推定すると ほぼ85mm(35mm換算)の準望遠レンズに相当しそうだ

(2015・2・3)

 

段丘写真ミニ屏風

わが町ゼミの宿題 6はA3判のコンセプト・プレゼンボードの作成

今回 立体的にとらえて 上記屏風写真をA4判で6枚をつなげ ミニ屏風としてみた

手前は 宿題 5の葉書サイズの ミニミニ屏風 着彩地形図は 1/18000の縮尺に拡大 A3判のボードに貼りこみ

裏側は対岸の鼎段丘の手持ちの写真をピックアップしたもの

ほぼ逆光で連続パノラマは取りにくいので 6枚とも異なる撮影場所となっている

こうして見ると やはり上の通称・かやがき坂のパノラマポイントの素晴らしさを実感する

地形図の中心あたりから ミニ屏風を眺めると けっこう臨場感を味わえる

(2015・3・1)

 

おまけ あたご道 絵手紙風

「絵手紙」という根強い人気の表現方法がある そこで わが町ゼミ 第4回の宿題にタテ組構図で絵手紙風に仕上げてみた

ややお粗末で恐縮至極だがご容赦ねがいたい

左は鼎中平から段丘上のビル群 いわゆる「天空ビル」の見上げ

写真と較べるとビルの色が強すぎるので いわゆる空気遠近法では遠近感は減少していて

ビルはやや大きく見えるが 実際の注視した感じを表しているような気がする

右は同じ道を数百m進み 愛宕坂酒蔵の間から和風建築「蕉梧堂」を、見上げたもの

写真を見ながら描いたものだが やはり主要な対象物を 大きく描いてしまう傾向がでているようだ

(2015・2・1)

 

 

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