南信州農村舞台めぐり

長野県南部に農村歌舞伎舞台あるいは人形浄瑠璃舞台を訪ねる

 

※千代・野池神社 芸能大会雨除けブルーシート こちら

 

その1 農村舞台とは何か

その2 大鹿村の4つの農村舞台 こちら その3 天竜川左岸の農村舞台 こちら

その4 飯田西部地区 こちら その5 下伊那北部 こちら その6 番外・長野県内の農村舞台 こちら

追加/舞台校舎実測図面 →jump 舞台校舎復元内部 →jump

飯田市の北部 座光寺地区の中段に旧座光寺小学校舞台校舎がある

間口10間 奥行き7間の巨大な木造建築

 

明治6年農村歌舞伎舞台として計画されたが 一度も上演されることなく 建設途中から小学校に転用された

玄関を取り去って復元工事が完了

正面の建具を開け放つと 幅8間の舞台 左右に2層の太夫座

 

後ろ2間が3階建てとなっていて中 2階と2階が教室として使われ

前5間の舞台の上部2階が広間として使われていたようだ

 

長野県東部 東御市東町の舞台 定期的に歌舞伎が上演されている

前面には観客席になる傾斜のついた空地

廻り舞台やスッポンなどの装置 したがって裏側の傾斜地に奈落があるのが理想的

 

これは上郷地区の黒田神社人形舞台 重要民俗文化財 天保年間に建設され

一時やはり2階を小学校として使っていたという

人形舞台は足を隠すように舞台が1段低くなっている 当然ながら一般的に規模は小さい

 

左は隣の大鹿村大碩神社 村歌舞伎定期公演は5月 妻入りの舞台は珍しい

右は10月に行われる同じく市場神社の定期公演 幕間風景 当時は雨よけのシートあり

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 江戸の末期から明治時代にかけての政治的大変革期において、生糸輸出という経済的背景から

熱病(?)のように村歌舞伎や人形浄瑠璃に熱中した人たちがいた。

 南信州のあちこちの神社にひっそりと存在する舞台を訪問し、そんな150年前の

若者の姿を思い浮かべてみたい。

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2008・8・27

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旧座光寺小学校舞台校舎実測図

(2012・2・25)

平成2年 飯田市教育委員会より復元工事のための実測図作成を依頼された

たまたま書類整理をしていたところ当時の資料を発見したので上記の関連として追加しておきたい

当初図面はトレーシングペーパーに鉛筆でA1版 スケールは1/50で作成

その後 A3判 1/100に縮小したものを 地元への復元工事説明会資料とした

以下のものは それを スキャナーで複写し再構成したものである

左が1階平面図 玄関から真っ直ぐのローカ 左右を職員室・事務室として使っていたようだ 奥は土間の倉庫

右図面 倉庫の上に中2階 残りは吹き抜け

2階はタタミ敷きの大広間 裏は板の間 屋根には1ヶ所だけ天窓があった

右が正面の北立面図 左右に2層の太夫座 左は東の立面

左は南北断面 右が東西断面 小屋組は登り梁にて母屋を支えている

左は西立面 右が南立面 建物裏側になる 障子部分が中2階になっていた

西の鬼瓦と鯱部分の詳細

左が正面東側の太夫座の詳細 右は右側面北側のナマコ壁の様子

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旧座光寺小学校舞台校舎復元改修内部 麻績の里桜まつりにて

(2014・4・19)

舞台桜は満開をすぎて散り始めだったが すごい人出

舞台校舎も正面の建具を開け放ち 広場から舞台内部が見られた

どうせなら両脇の1間分も それぞれ開けてほしかったが

舞台上では お抹茶サービス 500円也

これは別の日の内部

左が奥の倉庫部分 2階への階段は立ち入り禁止

奥の中2階も資料展示だが やはり上には上がれない

右は西の太夫座と2階への階段

2階床は大部分がはずされていて 梁をとおして見えるのは2階の天井

手前の柱は2階部分を突き抜けて 小屋梁を支えている

奥の柱は当初はなかったが補強で入れたようだ

つまり長さ8間分の2本の床梁を 左右の幅60cm成(せい)が1m近い大梁で支えている

ほぼ間口10間 奥行5間の無柱空間という迫力ある構造

舞台奥より客席広場方向と舞台桜

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追補/飯田歴史研究所・飯田下伊那資料叢書 建造物編「農村舞台」発行

(2012・5・22)

同研究所客員研究員・金澤雄記さんによる悉皆調査報告書がこの度刊行された

コラムの末席を汚したので 3冊の贈呈を受けた 全245頁定価2000円

飯田・下伊那の農村舞台124棟の調査 さらに現存する68棟の図面や写真も網羅

こうして記録に残して次世代に伝えることができるのは ほんとうにうれしい

 

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