私的景観覚え書

 

飯田市の景観構造と称して さまざまな景観テーマに基づき 該当景観を提示している

それら景観は 風景をある空間のなかで体感する以上 本来私的にならざるをえない

以下はその中でも とくにプライベートな日常生活での一コマを 取り上げてみるもので

まさに日記のようなものだが そんなのどうでもいいよ という方はスルーしてください

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※新型コロナ関連については移動しました こちら

 

新千歳→セントレア

スカイマークの762便の搭乗待合

使用機は 帰路も B737-800

今度は左側の窓際席

午前10時の予定が10分遅れで 新千歳を離陸

やはり帰路も日本海側ルート 松本上空を通過し 左手には富士山を遠望

1時間40分のフライトで名古屋港を見て 着陸体勢

セントレア滑走路に無事ランディング エアブレーキ全開で減速

セントレアからは名鉄線で名古屋駅に出て 飯田行のバスに乗り込み 我が家に帰着した

(2024・9・24)

 

sapporo Arternative House

札幌市の南部 藻岩山の南の山麓の傾斜地

こちらは 南東に面した裏面

玄関を入ると右手に こどもたちの遊びスペース ランドセルが3人分

その奥を回り込むと 奥がダイニング

さらに左に回り 2階への階段と キッチンスペース 奥に浴室関係

階段を上がるとJPさんの仕事スペース 突き当りが奥様の仕事コーナー

さらに左に回り込むと こどもたちの勉強スペース 左が3人のカプセルのようなベッドが3人分

その カプセルベッドと階段側からの カプセル

逆の南側からの勉強スペース 奥に1段下がった奥様の仕事コーナー 右がカプセルベッド

1階玄関に面した防音のスタジオ リモート専用室でもある 趣味のギターが並んでいる

なお玄関入って左には浴室付きのゲストルームがある

その入口右にシューズボックス さらに右に手洗いとWC

(2024・9・2)

 

新千歳空港

2日目はあいにくの天候で 知人への土産をさがしに 札幌駅からJR線で30分

雨の滑走路から到着のJAL機 左はこれから離陸にむかうJAL機

ターミナルビル3階のラウンジ 土産店を物色しクールにて発送

展望ラウンジで飛行機の発着を見ながらの昼食

 

モエレ沼公園

彫刻家・イサムノグチの最後の作品といわれる公園

センターハウスに附属するピラミッドのガラス越しのマウンテン

さすがに何面するガラス屋根はムッとする熱気

JPさん家族は よくここに来るという

夕暮れ近く 小樽の堺町通り商店街も散策

札幌軟石と呼ばれる凝灰岩で外壁が造られた倉庫が立ち並ぶ

そのうち もっとも大きな建物 北一硝子三番館の内部

(2024・8・15)

 

サッポロ紀行

JPさんが自宅を新築 観光をかねての札幌訪問 

中部国際セントレア空港へ

長い動く歩道をへて ターミナルビルを土産店の並ぶ3階と4階のフードコート

そしてANA715便に搭乗 機体はB737-800 窓際席でセントレアを離陸し

日本海側を北上し1時間半後 新千歳に到着

 

定番札幌観光

翌日は市内の名所めぐり

まずは羊ヶ丘展望台のクラーク像へ 記念撮影の長い列 次の人がシャッターを押す決まりのようだ

さらに中心部の時計台周辺 二条市場で昼食 kid’s さんは念願の イクラ丼

大通り公園からテレビ塔 上部は改修工事の仮囲い

大通り地下のオーロラタウン

 

 北海道大学

北海道大学の13条校門から 真っすぐ進むと有名な銀杏並木

その突き当り 右手が工学部棟

研究室とゼミ室

工学部棟と道をへだてて 演習室棟

2階が模型製作などの作業室 1階が製図スペース

北9条の正門際のインフォメーションセンター・エルムの森で コーヒータイム

(2024・7・27)

 

浦野耳鼻科

浴槽の縁に昇って 壁を拭き掃除中転落 下の おおぎ整形(3度目)で肋骨骨折の診断

それから 3週間 左耳に違和感あり 町内の耳鼻咽喉科へ

右手が耳鼻科(兄) 左手が歯科(弟) 設計は友人の建築家だというが なかなか良い建物

中庭を挟んで 耳鼻科と歯科 明るい雰囲気

さて診断は鼓膜に穴が開いているという(治りかけ) 水泳は耳栓使用の注意

(2023・4・18)

 

再び おうぎ整形外科

金曜日 玄関の自転車のサイクルメーターの電池を交換しようと 椅子の上で作業(再現)

そのまま椅子とともに転倒 上り框に大腿部を強打 2日ほどは そのままいつもの運動だったが

ついに日曜日に痛みがひどく 1日寝込んで 5年ぶりの整形外科へ レントゲンを撮っての 診察室では

 たんなる打撲の診断 普段の室内自転車の筋肉と徒歩運動での骨密度に助けられた ただダメージは大きく

正座が元通りに出来るまでに 3週間 下肢のあちこちでの痛みに耐えつつの運動継続だった

そのリハビリを続けなかったら 硬直化する筋肉のバランスが 膝関節に影響し 待合室での知人のように

ヒアルロン酸の定期的な注入にまで至る事態も予想され ゾッとしたのであった

(2022・4・2)

 

飯田高羽町合同庁舎

羽場大瀬木線側 つまり裏側からの合同庁舎 円柱は飯田測候所の観測塔 手前の芝生がアメダス装置群

原広司先生設計のオシャレな建物だが ロケーションが良ければもっと目立つはず

正面のスキ間がエントランスで ややせせこましい感じもする

1階に飯田税務署入り口 3階が今回訪れた労働基準監督署の入り口

(2021・8・10)

 

飯田市斎苑 →jump おまけ・偲ぶ会出席2題 →jump 近郊旧道歩き編 →jump

おまけ ゴードン・カレン「都市の景観(TOWNSCAPE)」を50年ぶりに読む →jump

クリニック編 後藤医院再開院 →jump 集落散歩・大鹿村上蔵編 →jump

豊丘リノベ見学会・筒井邸&林邸編 →jump  高森町古民家セミナー →jump

中馬ぬくもり街道ひな祭り 駒場宿 →jump 飯田自動車学校 →jump

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ホスピタル編

輝山会記念病院 →jump 飯田病院 →jump 健和会病院 →jump

輝山会記念病院アネックス →jump

 

飯田市立病院

八幡台地の突端に立つ飯田市立病院 これは長姫台地からの遠望だが ランドマークとしての存在感

病棟部分の手前の平屋が外来診察棟 右奥に救命救急センター棟

ヘリポート奥より 左が救命救急センター

設計は日建設計名古屋支店のようだ 右が玄関

外来は中庭を挟んで2棟が平行する配置 こちらは南外来 一番奥が今回お世話になっている皮膚科

手前左の内科では血液検査等の診察を受けた 右写真は吹き抜けホールの向こうに会計部門

これは病棟6階バルコニーからの天竜川段丘風景(5年ほど前の紅葉の季節) 手前にヘリポート 

道路は国道153号 山並みは伊那山地で中央の丸い峰が その最高峰・鬼面山(1889m)

2016・5・31

病棟5階ホールから上郷台地方向 左の杜が飯田城址 右の緑が御殿山

さらに少し左に振って 市街地のビル群

(2016・8・28)

輝山会記念病院

JR飯田線駄科駅が最寄駅 透析治療の拠点として有名

設計は竹中工務店だというが いい建物だ

西側につづく病棟は南面 逆の北側は天竜川と毛賀沢川との合流点

ずいぶん前に大腸ガンの内視鏡検査で来たことはあったが 母親が自室で転倒 救急車で運ばれ

診断の結果 胸部圧迫骨折でしばらく入院 旧遠州街道を電動自転車で様子見に通った

病棟ホールからの天竜川弁天方面のパノラマ

2016・5・26

輝山会記念病院アネックス

駄科の輝山会記念病院にアネックス(別館)が竣工

本館受付からはもっとも奥の位置

JR飯田線の毛賀駅から駄科駅に向かう線路の近く

東側からの全体像 1階が事業所内保育園になっていて柵の内側が園庭

南の線路側がメインのエントランス

左が介護ステーション 右が八重のさくら保育園の入り口

柵から保育園を覗いてみたら 大きなスペースに数人の園児と それより多い保育士さん

(2019・5・30)

 

飯田病院

市立病院とともに飯田下伊那の中核病院で明治36年の開業

おおきくエントランス左の東棟と右の北棟さらにはその奥に南棟から成っている

聳え立つ7階建ての北棟 最上階には展望レストラン こちら

メインエントランスが北西のため基本的に逆光状態 引きは取れないし 写真に撮りにくい建物

大きな回転ドアから玄関の正面に会計

右は待合ホールと奥に喫茶 会計から右手に診察の中待

その手前右にエレベーターが2台だけ これはあまりに少ない印象

最上階7階のエレベーターホールから東棟と市街地 遠くに南アルプスの雪山と前山の伊那山地

同じくエレベーターホールから風越山とその手前に広がる上飯田方面

右手の山は猪の山 その下に飯田風越高校が見える

(2017・2・5)

飯田病院眼科外来

ここへきて急速に視力が弱くなった気配 どうもスマホに替えてからのような気がする

今回飯田病院の眼科を受診した

待合スペースのもっとも奥が眼科 受付で書類を出し しばらく中待で待機したあと

視力の検査 やや時間をおいて診察室へ やはり白内障の傾向がある とのこと

瞳孔を拡げる点眼を受けたので 帰り道は眩しくて裏道を歩くのに閉口

(2017・9・28)

健和会病院MRI検査

ものが上下に2重に見える現象 今年のはじめ家庭麻雀でマンズの捨て牌を見間違えることが多く

さらにこのごろは人の顔では眼が2重になって 知り合いに失礼なことが多々あり 羽生先生に相談

健和会病院の神経内科を紹介された

MRIの予約日に訪ね 玄関の回転ドアから

受付へ 増築を重ねただけに複雑な平面だが

西側奥の検査室へ 30分ほどイヤフォンから流れる演歌を聴きながらの断層撮影

終わって中待でしばらく待って 結果を聞いた 腫瘍などは見られないが 小さな脳梗塞がある という診断

病院裏手の ひまわり薬局で 脳梗塞予防の薬をもらって帰宅

後日 東南方向から 手前が ひまわり薬局の裏側

これは別の日 隣のキラヤへ出かけた際の健和会病院・健康祭りの風景

(2017・10・5)

 

クリニック編 中央眼科

先日のMRI検査で脳には異常なく やはり眼の問題だろう と羽生先生の助言通り別の眼科を受診

鼎名古熊 大型店サティの道を挟んだ東側

吹抜けの上までトラバーチンの壁 という費用のかかった待合室

あらためて視力検査 同時に数人が受けるので やや聴き取りにくい 壁・天井の吸音性能に難

このあと瞳孔を拡げる点眼を受け しばらくして診察 乱視でも2重に見えるケースがあるという

また白内障も同様な症状がでることもあるらしい 乱視の進行にくわえての結果ではないか との診断

(2017・10・18)

 

おうぎ整形外科

飯田駅から東和町方面 2年ほど前 長距離散歩の際 凍った下り坂に遭遇 ままよと注意深く歩いたのだが

雪の部分を抜けて油断 靴底に雪がついていたらしく グレーチングに滑って激しく転倒した

骨接ぎで見てもらったところ これはヤバそうと紹介され レントゲンを撮ってみれば

左足首の外果骨折 そのままギプス装着し4週間

というわけで しばらくは松葉杖という生活 完治したのは2ヶ月後だった

(2017・2・21)

 

なみき整骨院

いつのまにか閉院し美容院になっていました

そんなわけで しばらく リハビリに通ったのは

市役所斜め前 もとは知久の湯の跡地の鉄骨ビルの1階 電気治療器のお世話になった

(2017・3・9)

 

回生堂皮膚科クリニック

顔に疥癬様のものができ いつもは伝馬町2丁目の後藤皮膚科に行くのだが休院中

そこで柳通りを下った城東地区の回生堂へ

塗り薬はクリニックより3軒ほど通りを上がったアサヒ薬局

主任薬剤師がなんとなく親しげだったが そういえば裏の箕瀬2丁目・元中島薬局の御主人

(2017・5・28)

皮膚科泌尿器科・渡辺医院

その後 状態は捗々しくなく 丸山町の渡辺先生に診てもらったところ

どうも前回の薬が弱かったらしく 少し強いのにしましょう とクォーレ薬局へ…で完治

(2017・9・7)

 

後藤医院再開院

しばらく休院していた後藤医院皮膚科

このたび ご子息が内科医院を あらためて開院した

専門は脳神経内科だが先代の遺志をついで皮膚科も診察している

もともとは同敷地で産婦人科医院として戦後開業し 3代目になる 長男もそこで誕生している

このスクラッチタイル張りのRC3階建ての住宅を1979年に設計させてもらった その後 1階を

1982年帰郷した先代が皮膚科として開業し さらに1996年一部増築をも設計したものである

(2018・7・19)

 

羽生循環器科内科

身体中に発疹ができて あわてて鼎一色の主治医・羽生先生のところへ

建物は今から31年前に設計 冬場は石油大型ストーブで暖房の待合室

さらに中待で待機して診察 診立ては水疱瘡ではないか と宮入皮膚科へ紹介状

(なお今年4月より大先生と呼ばれる院長は週2回 浪合診療所に出張しており

若先生の副院長が 旧心電図室を模様替え 診察室として 常時診察をおこなっている

心電図あるいはエコー検査室は救急入り口スペースを改造して業務を継続している)

 

宮入皮膚科

東中央通りの宮入先生も やはり水疱瘡の診断 さらに飯田市立病院へ廻った

血液検査では HIVやトレポノーマと危ういところをクリアしたが 水痘帯状疱疹ウィルスを確認

もちろん幼少の頃には罹っており 免疫があるはずだが 老化にくわえ過度な運動が

免疫力の低下をまねいたのではないか と1ヶ月半の通院治療となった

(2017・9・14)

 

飯田市斎苑

風越山麓の松洞川の源流近くの窪地に建つ

玄関ホールから正面に火葬炉が3基 左側に祭壇と右側に収骨室

廊下を隔てて待合室 右奥に控室が3室 正面の大きな窓から火葬炉棟

大きな屋根が待合室棟

(2016・12・20)

 

飯田郵便局

郵便物や荷物の発送には 徒歩運動を兼ねて 東和町の飯田郵便局へ

有名な8差路がラウンドアバウトになって その向こうに飯田郵便局

東和町の周辺道路はかなりの勾配がついていて 入り口は2つ こちらは南側 少し階段を昇るとホール

左に金融・保険関係の窓口とつづいて郵便受付 もっとも奥にATMコーナーがある

逆側から見た郵便受付 休日はシャッターが降りて 右に休日受付窓口

主玄関は駐車場のある北側となっているようだ

(2020・4・2)

 

飯田自動車学校

後期高齢者としての初めての運転免許更新を控え 認知機能検査を受けに

早くも梅雨入り(東海地方)した 雨の中を切石の飯田自動車学校へ

お節介虫の kid’s さんがドリルを買ってきたので 室内自転車を漕ぎながらの お勉強

図柄を記憶するテストが難物だというウワサ とりあえず 赤枠のヒントと呼ばれる分類名称16種を覚えた

採点結果待ちの教室から 次の講習予約へ 17名中10名は2時間講習 残る7名のうち2人は別室へ

76点以上が2時間講習 49点以上が3時間 それ未満は医者の診断というコース分け

幸いにも 作戦が功を奏して 100点満点で 3週間後の講習へ

2時間講習 当日は晴れて 今度は市役所で電動自転車を借り 自動車学校へ

教室で順番に視野検査を受けたあと 教習コースで1人づつ 実地講習

(2021・6・17)

近郊旧道歩き編・喬木村伊久間

飯田歴史研究所・樋口ゼミの面々と喬木村の旧道歩き

天竜川左岸の河岸段丘下には3本の道路が南北に走っていて

最も新しい道路は天竜川の堤防沿いの快適な道路 これはそこより高台のかつての主要道路の県道18号線

さらにその上の段丘真下を地形に沿って旧道がある 一部開けた眺めのいいところもあり 

これは元の造り酒屋・沢柳酒店の大きな屋根から上郷の高松台 左に飯田の市街地 奥に風越山を望む風景

堤防側の新道から伊久間集落に向かい 旧道段丘下の法運寺が集合場所

少し時間があったので 寺の裏手の墓地まで登ってみた

ここからも見事な段丘風景 大きな瓦屋根が法運寺

旧道のもっとも南から北方向に歩き始め

法運寺前を通過 建て込んだ民家の間をぬけて行く クルマは通れるが行き違いは不可能

やはり段丘崖の良水が出るところで集落が発達したようだ

最後に諏訪社に到着し 旧道歩きを終えた

(2017・2・23)

近郊旧道歩き編・中川村田島

上記 喬木村から中川村に移動 国道から西に平行する旧道へ

天竜川右岸の支流・前沢川にかかる前沢橋の近くの村神神社の駐車場にクルマをとめる

ちょうど正面の中央アルプスは越百から空木岳までの稜線

神社と社務所の真ん中を旧道が抜けている 南に向かって かつての商店集積の痕跡

さらに平坦な旧道は同じような風景がつづく

Uターンして元の神社方向へ戻り

神社前 橋のたもとの たろう屋商店へ もとは魚屋だったという店舗を I ターンの夫婦がセルフリノベーション

有機野菜を中心にした八百屋と称している

地場産品のほか 周辺に在住しているクラフト作家の作品も陳列

奥さんの陶芸作品コーナーもある

(2017・3・28)

 

近郊集落歩き・大鹿村上蔵(わぞ)編

飯田歴史研究所建築史ゼミが見学会を企画 福徳寺前の駐車場に集合した

雪をいただく赤石岳が谷間を通して見える が生憎の曇り空

30年ぶりの訪問だ イチョウの黄葉と青空があれば最高だったが

上蔵は この福徳寺を要にして山際に広がる集落

あちこちに崩落の跡が残り リニアのトンネル掘削と残土処理への不安感は理解できる

福徳寺は1160年建立という3間四方 こけら葺きの小さな お堂で重要文化財

福村研究員の解説を聞いたあと 集落へあがっていく

30年前には現存する農村舞台の野々宮神社 信濃の宮 チーズ工房アルプカーゼなど廻ったが

時が止まったような集落風景は あまり変わっていない

換気越し屋根を備えた 桑蔵の2階に蚕室 しかも屋敷門という珍しい建物

このあとアルプカーゼの小林さん所有の牧草地から シカ除け柵のあいだを福徳寺裏に下りた

さらに小渋川の断崖に位置する大河原城址を巡り 昼食会場の大河原・右馬允に向かった

(2020・2・11)

 

豊丘リノベ見学会・筒井邸編

雲ひとつなく晴れ上がった2月のはじめ 豊丘村役場駐車場に集合

建築史研究会の若手・林さんの設計したリノベ物件の見学会

総2階瓦葺きの典型的な養蚕農家 ただ屋根構造はトラスの洋小屋だという

昭和3年築で 古民家というべきか微妙なところだ 玄関をホール側から 左が2階への階段

床のタタミをすべてはがし 仕口ダンパーというゴム製のダンパーで耐震性を確保したそうだ

表に10帖が3室 裏に8帖が3室 フスマで仕切られている

今回 裏の3室を模様替え 中の間にはロフトを新設 西の間も床を板張りに

右は その西の間の縁側から 雪をいただく中央アルプス

 

リノベの難しさは あそこも ここもと 際限なく拡がる改造志向を いかに断ち切るか というところ

ここの場合 表の3室には手をつけない という潔さが目立っていたように思えた

(2020・2・23)

 

豊丘リノベ見学会・林邸編

豊丘村神稲の高台 小さな沢の谷を見下ろす 南面した リノベ住宅が自邸

右の入母屋住宅が主屋 同一敷地の柿干し場(左)をDIYで改造したという

玄関には桐タンスと木桶 玄関引戸は古民家の大戸を改造したらしい

入り口は丈が低く 入る時に したたか頭を ぶつけてしまった

リビングの大壁は黒板塗料 しかも鉄粉入りで マグネットが利くという

前に保育園の設計で個人的に検討したものの 結局は実現しなかった

模造紙などを張れば お絵かき用には最適だったが

リビングに並んで台所 これも南向きで居住性は良さそうだ 壁の青いタイルも苦労して貼りこんだらしい

*

帰り際 主家の父君・林由之さんに会うことができた 同じ設計屋として40年来のお付き合い

このところすっかりご無沙汰していた 元気な顔を見ることができて本当に良かった

(2020・3・10)

 

高森町古民家セミナー

高森町には本棟民家が40数棟 現存している その中心・吉田地区には8棟の本棟民家と2棟の養蚕農家

その吉田地区の区民会館で上記セミナーが開催された

区民会館の設計は 吉田在住の木下光さんの設計 ところが前日 体調を崩しての SOS

急遽 ピンチヒッターとして 講師を引き受けることになった

20数名の参加者のほとんどが 吉田の本棟民家に住んでいる様子

現地の人より詳しいはずもなく 飯田市の古民家の現状について報告することにした

(2020・9・10)

 

中馬ぬくもり街道ひな祭り 駒場宿

いわゆる中馬の往来した三州街道の平谷・浪合から清内路・昼神温泉・駒場 遠州街道の天竜峡・飯田

全部を通しての ひな人形展示イベント

このあたりは月遅れで4月3日が ひなまつりの本日 陽気も良く 駒場宿も明るい雰囲気

駒場ひなまつりのセンター的役割の古民家つぼや

つぼやの土間や ほていや は吊るしびな が店頭一杯に

元鮮魚店は これでもか と段飾り

一般民家や 元銭湯の旧玉の湯の洗い場にも鎮座

(2021・4・8)

 

偲ぶ会出席2題

飯田の景観ではないが 景観思考の元となった お二人の偲ぶ会に出席したので 記録しておきたい

小原先生を偲ぶ会

会場は所沢聖地霊園の大礼拝堂

小原二郎先生は千葉大学名誉教授と千葉工業大学理事を務められた

我が国における建築室内人間工学の大家であり 長らく日本インテリア学会の会長であった

その大礼拝堂は1974年建築学会作品賞・池原義郎設計

人間中心に環境をとらえるという その方法は その後 携わった都市関係の業務にも

ずいぶんと活かすことができたし それは現在の景観に対する考え方の基本となっている

DOCOMOMOにも登録建築のインテリア ただ知り合いは少なく手持ち無沙汰

平成28年5月に99歳で他界された 生前には勲二等瑞宝章ほかを受けられている

米寿のお祝いも自分で全て仕切った手際のいい先生らしく 生前手配された墓石に 白菊を手向け お別れをした

右写真は10年前の「みどりの文化賞」受賞の際のご夫妻

*

野公男さんを偲ぶ会

平成27年7月20日 神田錦町・学士会館にて偲ぶ会が催され 上京した

野公男さんは 東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科 名誉教授として

また都市計画・建築設計を専門とする (株)マヌ都市建築研究所の所長として

長く活躍されていたが 平成27年6月マレーシアにてダイビング中 客死された

東大・西村幸夫教授をはじめ 142名が出席し 在りし日の野公男さんを偲んだ

個人的にも大変お世話になった方であり 筆者の景観思考の形成の根幹に

大きな影響を受けた人でもある 遅くなってしまったが ここで改めて追悼したい

当日配布された冊子 野公男さんは享年78歳 冊子には思い出を書かせてもらった 写真下が事務所仲間と筆者

マヌ都市建築研究所

上記の冊子はマヌ創設50周年記念に際して 書き溜めていた野さんの原稿と

各氏の追悼文からなっている 年賀状には50周年記念行事をやるから よろしく

との便りだったが 結局は事務所引越しなどで翌年伸ばし51周年になったようだ

そうして そのまま訃報を受け 偲ぶ会になってしまったもので あとを引き継いだ

現社長・板谷龍二郎さんが中心となって まとめられたものである

(2016・12・4)

おまけ ゴードン・カレン「都市の景観(TOWNSCAPE)」を50年ぶりに読む

下は1974年に東京都港湾局の依頼で 都市環境研究所と一緒に行なった調査

マヌの所長の野さんと膝をつきあわせ議論した まさに景観調査の魁のようなもの

それから40年 景観に対する思いは ずっと燻っていて ネットの普及とともに飯田市のそれをまとめることを始めた

ふと学生時代のゼミを思い出し 上の景観調査の原点は これかもしれない と検索してみた

1975年に建築専門出版社・彰国社からSD選書として訳本が出ていて Amazon で扱っていたので 注文

山梨県都留市のネット古本店を通じてヤマトのDM便で送られてきた 3刷目 訳は当時名大助手の北原理雄

左が英の都市計画家 ゴードン・カレンによる1961年刊の原書 なぜか室内計画研究室の本棚にあり

ゼミの輪講で抄訳を発表した

前半は視点とビスタ そのシークエンスとストーリー性について 後半は都市デザインの技法の例示

とくに視覚生理・視覚心理については 研究室の人間工学思考とも馴染みが良かったようにみえる

そのあたりが その後の港湾の景観調査にも すんなりと入っていけた理由ではないか と思った

(2017・9・12)

 

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