大平街道三留野行き

※大平街道旧道踏破 →jump

 

大平街道 峠道三十三観音

巨大な名号石の脇に小さな舟形の如意輪観音像がある これは復元したもの

平成24年に羽場まちづくり委員会が整備した三十三観音像の復元趣意書

左は五番の千手観音のようだが 右は六番の千手観音像

八番はやはり十一面観音で 隣の丸石は馬頭観世音 右は十一番の准胝観音

道路上り方面左側に十七番の十一面観音 右の二十四番は千手観音のようだ

飯田峠手前の道路左側に三十三番の十一面観音 左側には新しい十一面観音

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峠道三十三観音は 上久堅から遠山上町に抜ける小川路峠や 山本から清内路に至る 梨子野峠でも見られる

伊賀良西部の笠松山(大平集落に向かう峠道でもある)にも残っている

(2022・5・8)

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大平街道は飯田線が開通する前は 東京や名古屋へ出るための主要道だった 

途中二つの峠を越え 中央線の三留野駅(みどの)現南木曽駅まで 11里44kmの行程

その昔 祖母からは 修学旅行で歩いた という話を聞いたことがある

そんな100年前の小学生の気分になって 街道を辿ってみることにした

当時の修学旅行の目的地は伊勢神宮らしく 女学校や中学校の場合は

それに京都・大阪方面も加わった模様

左は箕瀬入り口の大平街道案内板 駒ヶ根表記から昭和30年代のもののようだ

右は飯田最古といわれる道標 石柱の右手に大平街道の文字

風越山の麓の山の谷間を目指して歩き始める 聞き書きによれば 朝の3時頃飯田の町を出発したという

なお中央線全通前は 御坂峠を越えて中津川に出た という話もある

※御坂峠については信濃路自然遊歩道伊那谷ルートを参考にしてください こちら

大正8年には乗合バスが1日3往復走ったというが

徒歩による大平越えの修学旅行は大正末期まで行われていたようだ

松川第4発電所への送水管の上を通り 猿庫の泉の入り口を右手に見て

小さな滝やら 松川ダム湖やら(当時はダムはなかった)

ツンボ平附近には花火製造工場

ここまではわりと平坦な道が続く

市瀬橋は鉄筋コンクリートの上路アーチ橋 川面からはかなり高い

遠足などではここで小休止が一般的

市瀬橋からは つづら折りの山道 これが似た様な風景が続いて そうとう嫌になる部分

ただ市瀬橋のしばらく手前あたりから旧道があって 飯田峠へは半分の2時間ほどで上れるという

たしかに時間的にもつじつまがあうので もしかしたら児童たちは そっちを歩いたかもしれない

機会があったら探索してみたい

やっと飯田峠に到着 ちょうど日の出を迎える時間だったようだ

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この少し先に大平集落に至る旧道がある しばらく前 集落から ここまで往復してみたが

撮影したJPEGデータを置いていたUSBメモリーが壊れたため一瞬のうちに消えてしまった

逆に市瀬橋から飯田峠に通ずる旧道も途中まで歩いてみたが これも同様の事態となった

暖かくなったら再挑戦をしてみたい (2013・2・27)

大平街道の石柱 ここから下りで大平宿

右は大平宿の石柱 これは新しい県道より集落への入り口

旧道からだと出口になる

ある程度補修された当時の民家が並ぶ旧道 道幅も当時のままか

大平集落の民家については こちら

民家の間を通って 石柱のある県道に出る

林間に見えるは 廃校後の小学校分校

大平集落から いくらかの上りで大平峠に向う

峠附近

頂上に古ぼけたトンネル そこを抜けると禿岳登山道入り口

この先には草原のキャンプ場があって 中学2年の時キャンプ体験

峠を下ってしばらく行くと 木曾見茶屋 奥に見える茶屋では おでんが定番

木曾側の眺望 眼下に見える集落まで下るのだが

この眺めの良さは いつ見ても素晴らしい

下り坂ではあるが 距離はある クネクネ曲がりながら下っていって

現在の国道256号線幸助地区に出る

もちろん当時は国道はなくて そのまま突っ切るかたちで旧道へ

幸助の集落から

蘭(あららぎ)の集落 時の止まったような 人のいない空間

集落の旧道から国道に出て ずっと下りながら中山道馬籠宿への分かれ道

左に少し行くと大妻籠集落 妻籠へは このままの下り道

妻籠宿風景だが これは進行方向とは逆の眺め

山側にもう1本道があるので 急いでいれば妻籠宿を通らない可能性もある

逆に飯田出立を遅い時間にとり 妻籠で1泊し朝の列車に乗る

ということも考えられる すでに資料がないので何ともいえないが

宿場のはずれの水車小屋と高札場

途中わかりにくいが巨石 鯉の形をした鯉岩

宿場を出ると曲がりくねった旧中山道

神戸(ごうど)地区周辺の中山道を三留野宿方面へ

宿場は駅を通り過ぎて線路の東側にある

線路が見えたところで おそらく大歓声があがったはず

三留野宿へは向わず 線路をわたって一目散に駅まで

そうして三留野駅に到着 13時間の行程だったという

ここで草鞋を脱ぎ捨て 持参の下駄に履き替えて 初めて見る汽車に乗りこんだという

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2009・7・31

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先日 建築史ワークショップの会員でもある同年代のTMさんと 大平宿を見学しながら話したのだが

彼の母上もやはり 大平を越えて修学旅行に行ったという ただ 当時は修学旅行に行くことができた

身分の児童は非常に限られていたはずで しかも町場のお嬢さんが 長時間かけて歩いたというのは

なかなか想像しにくい かりにそのとおりだったとしても おそらく荷物を持った爺やが後をついて行き

帰りには三留野まで迎えに出たんじゃないか と意見の一致をみた

(2012・12・5)

 

最近読んだ本で 柴 桂子著 「近世の女旅日記事典」によれば

中山道の妻籠手前で厳しい福島関所を避けて 大平街道から飯田に出て

伊那街道(三州街道)で塩尻に向かう という記述が頻繁に見られる

予想以上に大平街道が使われていたのかもしれない

(2023・8・16 追補)

 

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大平街道旧道踏破

(2013・5・19)

そこで市瀬橋から大平集落までの旧道を歩いてみた 

黒い現県道は乗合バスの運行を想定して造られており山地の中腹を比較的緩い勾配で上っていく

赤い旧道は南沢に沿っての沢道で とくに堰堤からは300mの登り

なお現県道開通以前には上飯田から索道が建設され物資の運搬が (ときとして人も)行われていたという

市瀬橋のしばらく前にチェーンで止められた中部電力のダム管理用道路がある

川面まで下ると管理施設があり

途中から山道が始まる それなりの雰囲気の道を進むと水道橋 古の関所(番屋)があったのはこのあたりか

市瀬は一の瀬の意味で 下流の飯田城下の箕瀬は三の瀬からであるという つまり渡り易いところだったわけで

余談ながら では二の瀬はどこか 幕末天狗党が渡渉した上河原橋附近かなあ と思ったりした

水道管の上にグレーチングが敷いてあって対岸に渡ると やはり中電のダム管理道路

くねくねと上ると南沢林道に出会って(右) そのまま林道を進む ここまで25分

石仏が会ったりあるいは工事用の廃屋があったりするが勾配は緩い

川を渡り 林道はさらに進むのだが 旧道の標識にしたがって右の川面に降りていく

途中で道が崩れ川面に降り立つも どこにも道はなく しばらくは途方にくれた

意を決して堰堤の左側の崖を無理やり登ると

なんとなく道の感じ 基本的に沢詰めで さらにそれに落ちる小さな沢を越えていくのだが

野外教育研究財団の羽場さんが言っていたように 沢道は崩落が激しく 途中で消えたり現れたりする

ときどき目印のテープ類をみつけ なんとか迷うことなしに進んでいった 前に正永寺山に登った際

クマ鈴を落として今回持参せず 心配したが幸い遭遇しなかった ただサルは見かけた

ようやく樹々の向こうに空が見え山を巻きつつ上っていく

そして尾根に出て熊笹の中を県道に向かって さらにもう少し

飯田峠のちょっと手前に出る それにしても 300mの上りはキツかった

南沢林道の入り口からは1時間10分 帰りは旧道を戻る気にはとてもならず

現県道を1時間35分かけて林道入り口まで下った

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飯田峠から大平集落までの旧道は かなり以前に大平集落側から往復した

30分ほどで集落にまで至った記憶があるが その際の撮影写真は

御坂峠越えのデータと一緒に消えてしまったため 後日報告の予定

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