歴史景観クエスチョン

その2 源長川・箕瀬蛇行 →jump その3 大王路・都出橋の名称と飯田線 →jump

その4 古東山道の道筋・中段説の検証 →jump

※その5 三州街道・野底川周辺 →jump

1) 景観の歴史構造

 景観は もともとあった地形的条件にくわえ そこで営まれる生活・文化との相互作用によって

 形成されてきた つまり そこにはその地域の社会の歴史が色濃くあらわれているものである

 したがって景観構造の分析は そこでの歴史を詳しく調べることが まず必要になってくるが

 なにより現場に立って それらを体感することを第一義としたい

 

2) 景観イコノロジー

 美術史における図像学(イコノグラフ)あるいは図像解釈学(イコノロジー)といえば大げさだが

 昨今は考古学の分野でも時代測定の精度が上がってきて 当時の生活はもちろん社会構造にまで

 大胆な推論がなされる傾向にあり 議論が盛り上がっている

 景観においても その3次元性により 地理学的なものは当然として 上にあげた歴史をはじめ

 植生や生物など そこで得られる情報は多岐にわたっている 今まで過去の遺物によってしか

 判断できなかった事柄も 上記の情報を総合し大胆に推測することも許されるのではないか

 

3) 歴史景観クエスチョン

 そんな思いで できるだけ現場に臨み 歴史を踏まえつつ 似たようなな場所での経験から

 景観構造を考えてきた 大部分は 「なるほど そういうことか」 と納得できるのだが 

 「どうにもよくわからん」 という場所にも 何回か出会ってきている 文献資料が

 まったく見当たらないことや あったとしても どうにも腑に落ちない点を感ずることもある

 そこで想像力を飛躍させ 半ば「ファンタジー」として 無理やり「ストーリー」をつくってみたい

 以下はそれらについて 歴史景観クエスチョンとして あげてみるものである

 

その1 北主税町の痕跡

中央通りを下っていくと

1丁目で不自然に曲がっていて

さらに中劇前附近で道路は下がり 銀座のスクランブル交差点でまた上る

スクランブル交差点から見る

中央通りの裏道 中央公園側の通りを銀座側より見る

飯田市の中心部 橋南と橋北を隔てる谷川をわたる橋を 通称「めがね橋」 「長姫橋」ともいう

銀座側より伝馬町方面 銀座という名称自体古いものではなく この近辺は北主税町と呼ばれていたらしい

谷川の流れる位置はかなり低い その後一時 長姫町の一部となり 現在は銀座1丁目となっている

江戸古地図によれば長姫橋はかなり低く 銀座側・伝馬町側からはともに坂道で橋まで下っている

その後 橋はだんだんとかさ上げされ 明治中期に堀の石を利用して 現在の高さになったもようで

中央通りは そこに接続するために 途中から上がるようになったのではないか と思われる

谷川線と中央公園 この先でスクランブル交差点に至る

谷川線は大正14年に造られた新道で 今度は高くなった通りにあわせて結びつけたようだ

なお谷川線を盛り上げる土は 飯田線の延伸にともなう掘割り工事の際のものを使ったようだ

その際 関東大震災の復興につかったトラック12台を貰い受け 工事に使ったという記録がある

写真は飯田駅を出て白山町の掘割りから羽場坂へ向かう飯田線 とうぜん手で掘ったもの

*

そんなわけで 中央通り1丁目の不自然な道路勾配は説明できるのだが

現在の めがね橋(長姫橋)からの坂道の姿が想像できず 歴史景観クエスチョンとしておきたい

*

そんなある日 建築史ワークショップのメンバーでもある八木さんが 下の画像データを送ってくれた

上記 長姫橋の南詰 我がご先祖「義富仙」の町家風景で 明治22年発行の「商工便覧」に掲載されていた図版

ずいぶん誇張された絵のようで一見大店のようだが 間口は6間 それに梁間1間半くらいの土蔵が並んでいる

長姫橋は明治の11年に旧飯田城の堀の石を使って改修としたという記録があるが

この絵によると未だ木橋で時代的にはあわない また大量の埋土をどこから調達したのか

むしろこの絵は現在の橋の高さ以前の低い敷地と考えた方が辻褄があいそうだ

あるいは橋や道路の幅が現在よりも狭く その後の道路拡幅により建物が後退したとすれば

その時点で崖屋造りになった という推論も成り立つが

明治26年に橋の嵩上げ工事の記録があるので木橋の可能性が高そうだ

現在の長姫橋を逆の東側の公園方向から見たところ

水面から護岸の石垣が立ち上がり地盤となっている 記憶の中の大火後の店舗兼住宅は

ここから低い1層の物置があり その上が住居 さらに橋のレベルが店舗となっていた

2階建ての土蔵はこの写真左端部分にあった(昭和3年の棟札あり)

さらに橋の名称である 一般的に「めがね橋」は石造のアーチ橋を呼ぶ場合が多い

写真で見るとかなり低い位置に石造アーチがあり かなりの高さで道路の嵩上げがなされたようだ

おそらく「長姫橋」が「めがね橋」と呼ばれるようになったのが アーチ橋の完成時期といえそうだ

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橋の架けられた時期と構造については今後も調査を続けたいが いずれにしても谷川線の成立時期と

関連がありそうで その際 伝馬町筋もふくめ 大々的な工事が行われた可能性もありそうだ

昭和29年村澤武夫編「飯田今昔家並帳」より 明治23年頃として「松島仙吉」の名前が谷川の橋の南詰に登場する

右3枚の図版は主税町の町内史「主税町のあゆみ」によるもので 1枚目が明治25年頃 2枚目が大正元年〜5年頃

3枚目の右端が昭和元年〜7年頃とされているが そこには長姫町として谷川線の姿が描かれている

明治以前の家並帳に「ぎふや仙右ヱ門」という名を松尾町や伝馬町に見ることができる 前に仙右ヱ門という位牌を

眼にしたことはある それが家並帳の人物かどうかは不明 ただ和紙の関係で美濃から移ってきたことはいえそうだ

2013・1・17

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その2 源長川・箕瀬蛇行

(2013・6・15)

源長川は風越山麓に源を発し 上飯田を通過して市役所南側の扇町公園(通称・四季の広場)の下で

王竜寺川と合流する市街地河川である 箕瀬1丁目と2丁目を隔てているが

そこで不自然に屈曲して児童公園下を暗渠で抜けている

昭和36年の集中豪雨で源長川が氾濫し市役所裏通りの橋が落ち その後暗渠化したものである

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以下は36災による源長側氾濫の記録写真

「写真集 思い出のアルバム 飯田の昭和史」昭和58年刊より 右は源長川右岸を箕瀬側から見ているようだ

その夜は 川を転がる大石の音がゴロゴロと しばらく聞こえていたが

そのうち大音響とともに橋が落ち あわてて避難 その時知久町は膝下までの水が川となって流れていた

『ふるさと写真館「飯田」』昭和63年刊より 大久保町の落ちた橋 左の門柱が当時の自宅 

上飯田からの濁流に乗った大きな岩が 屈曲部に当って崩落が起こったものと思われるが

問題は源長川が なぜここで大きく曲がっているかである 自然地形では考えられない曲がりなのだ

左は下流側から 右は上流側から見た屈曲部 江戸初期の古地図にも屈曲部は描かれている そこで

また妄想が始まるのだが どうもそれ以前に人為的に川を付け替えたような気がしてしまうのだ

大久保町には王竜寺川の谷とは別に もうひとつ大きな谷部が存在している(現在市役所職員駐車場)

その谷はどうして形成されたのか 元々川があったからではないのか さらに町内では

古代遺跡が発掘されているが 遺跡集落での水利用を考えると

もう少し近い部分に川があったと考えられないか 地形的に点線のような流路を推定してみたい

大久保町市役所裏通りを地面スレスレで撮ってみた いくらか凹んでいるようにも見える

さらに注目したいのは電柱の傾きで 不規則に傾くのは地盤が悪い証と昔先輩に教わった

そのあたりで住宅の新築工事が行われたので 基礎工事の状況を観察してみた 地盤はかなり悪かったようで

ここに見える地面よりも さらに2〜3mほど下まで掘削し地盤改良を行ったようだ

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というわけで やはり飯田城が現在地へ移る前の室町期 愛宕に城を築いた坂西(ばんざい)氏が

築城の際 防御用に流路を変更させた と考えてみたい

曲がっていない源長川の絵図あたりが出てくれば そこらがはっきりするのだが

 

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その3 大王路・都出橋の名称と飯田線

(2013・6・30)

上郷から大王路に上る坂道の手前の野底川に「都出橋」がある

なんの変哲もない橋なのだが 「つだしばし」と読むらしい 「津出し橋」と書いている例もある

そもそもこのあたりでは橋に名前が付けられたのは それほど古い話ではない

一般的には鉄筋コンクリート製の永久橋が建設された昭和初期から盛んになったようで

大半がその地区や場所から名づけられている むしろ地区に関係のない名前自体が珍しい 

一説によると「津出し」とは年貢米を納めることだという

橋の銘板自体真鍮製で格調高く おそらくは鉄筋コンクリートの欄干に取り付けられていたもの

欄干が老朽化しガードレールに替えられた際 取り外して

あらためて取り付けられたのではないだろうか 今となっては全く不釣合いな姿

そんな由緒ある橋として 上郷低部あるいは座光寺からの古い竜坂との関連を探ってみたい

赤い道が古い竜坂 青いのは明治32年に造られた新しい竜坂

古い竜坂を登りきると飯田線の上を跨ぐ歩道橋にでる 旧竜坂については こちら

飯田線はこの右手で飯沼神社の下を辰野・飯田間唯一のトンネルで抜け 台地に上っていく

しばらくは掘割が続くが ここで出た土が座光寺駅からトンネルへ至る線路敷きの嵩上げに使われたようだ

飯田線というか伊那電気鉄道が飯田駅まで延伸するのは大正12年であり そのころにはこの旧竜坂は

ほとんど使われていなかったのではないか したがって その道筋をそのまま線路敷としたことが考えられる

踏切の先が伊那上郷の駅 ここからしばらくは ほぼ平坦だが 線路と平行する道路はそんなに古くない

別府踏切で道路は飯田線と別れ野底川へ下っていく

坂道の勾配は途中で緩くなり橋の位置が高くなったことを示している

都出橋の北詰から飯田線の野底鉄橋を仰ぎ見る

大王路の坂を上がって 古刹・百丈山大雄寺の参道前に大きな道標がある

明治15年に建てられたもので正面に伊那街道 右側面には元善光寺道と読める

ことによったら位置は移動しているかもしれないが この道が座光寺方面へ向かう

主要な道であったことは間違いない と思われる

辞書によれば「津出し」とは港から荷舟を出すことだというが

海に関係のないこの地域で 使われていることについて さらに研究を続けてみたい

 

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その4 古・東山道の道筋−中段説の検証

(2013・7・14)

古代の東山道が飯田周辺を通っていたのだが そのルートをめぐって三つの説がある 上段説・中段説・下段説と

3ルートで上段説は三州街道 中段説は久米街道 下段説は遠州街道に それぞれ近いものになる

上段説の根拠としては 上流部ほど川の水量は少なく また段丘の高低さも少ないことなどとして

中段説は当時の中心部・座光寺へ至るには飯田台地を迂回し段丘下を北上するのが自然ではないか

下段説は古墳の分布が天竜川段丘の低い位置に比較的多いことを根拠としているらしい

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東山道の駅として阿知(阿智)育良(伊賀良)賢錐(片桐)が知られており位置の特定も諸説あるが

育良駅についても殿岡から三日市場のあたりとし 久米の朝臣(あっそ)附近へ出たという 中段説が

力を増しているようだ そのあたりは今後の研究を待つとして 中段説によるルートを検証してみたい

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〈山当て〉という古来からの位置決め手法がある 漁業や廻船など海の上で自分の位置を知る方法で

主要な山の見え方 とくに2つの目標の角度的な相異から判断するとして昔から使われてきた 

現在はランドマークという言い方に代表されているが 道を進む際には今でも無意識に使っている

そこで地図を逆にして飯田から阿智へのルートにおける〈山当て〉を考えてみる

東山道ルートにおいて もっとも重要なランドマークは御坂峠の存在をしめす恵那山であろう

さらに飯田方向から恵那山方向を見た場合 問題になるのは二つ山・三つ山・城山・水晶山

などの山塊であり さきの恵那山と結んで そのどこを通るのが適切かが論点になる

座光寺から段丘の下を南下する旧道は 昔から良い水が得られる場所

平坦で快適な道で よく自転車利用するが 御殿山の下で視界が開ける

右手が御殿山の端部 そこを真っ直ぐ進むと 正面に二つ山を遠望

少しわかりにくいが望遠で見る山塊

このあと しばらくは住宅が建てこんでいて 二つ山は見えない

野底川を渡る睦橋のあたりから住宅の間に山塊 建物がなければ かなり大きく見えそうだ

このあとやはり建物のため 山塊は見えず 松川の新飯田橋からの二つ山の遠望

少し松川左岸を西に上り 水の手橋の袂から ちょうど願王寺の森の右側

このあたりで松川を渡ったのかもしれない

願王寺の坂を上がってサティ横 SBCラジオ鉄塔の脇を殿岡方面へ

殿岡の交差点 二つ山を正面に見る ここで毛賀沢川を越え

さらに久米街道を進んで 天理教伊賀良教会脇を下り 新川を越えて三日市場方面へ

三日市場の交差点 久米街道はやや進路を東に振る 左の山塊が城山 右が二つ山の裾

ルートAだと 城山の東を大きく迂回する形になるが

ここではルートBを目指し 少し進路を西にとり 二つ山の東側を通るべく中村に向かって進行

茂都計川を越え 信菱電気工場脇を通って久米に抜けていく 左が城山 右の山地が二つ山の端部

正面に三遠南信自動車道 久米川に沿って西方向へ 山本小学校の手前で 久米川を渡って 急斜面を上ると

杵原学校の東側に出る 道路は三遠南信道山本インター附近

そのまま進めば七久里 雲の中の巨大な山塊が恵那山

このあと正面の山地を避け 左に迂回して阿智村駒場にいたる

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と一般的にいわれているルートAではなく 二つ山と城山の間を抜けるルートBをたどってみた

図ではほぼ直線となってはいるが 実際にはいくつもの川を渡る必要があり

その谷が深い場合には道もジグザグにならざるをえないが なんとなく これだなという感触をえた

今度は逆側からの道筋景観を追ってみたい

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その5 三州街道・野底川周辺

三州街道の項目でも述べているが 飯田城下を出た街道が野底川に向かうところで左にカーブし

ついで右にカーブして野底橋にいたる なんとも解せないルートであり 通るたびに不思議に思うのだ

橋は新道の建設にともない 掛けられたもので そこからヘアピンで坂道を上っていく

橋のたもとから旧街道へは直角に道がつなげられているが 本来川を渡るための道があったはずだ

と思いつつ 何回も現場に足を運んでみたのだが

 

 

以上順不同にクエスチョンを並べて さらに歴史ファンタジー(こちら) として別項で

勝手な推論を組み立てているが 次第にそれらのクエスチョンが相関してきている

胸に手を当てて考えてみるに筆者の一番知りたいことは 三州街道に関するもので

そのもっとも大きな疑問点が 根羽・浪合・駒場・伊賀良を経て 松川に出た街道が

その手前で右に曲がり 上茶屋方面にむしろ戻る線形になっているのはなぜか また

久米路橋を渡り 箕瀬に登っているのか 逆に飯田城下を出て野底川を渡る際 なぜ

今のような不自然な曲がりがあるのか である それらは とりもなおさず 飯田という

丘の上の町が出来上がった過程を体感したい ということにつきるような気がする

(2013・11・30)

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今後のクエスチョン予定

●三州街道の切石から久米路橋への道筋

●三州街道・大門から野底橋への道筋

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