景観歴史ファンタジー 中世飯田の点と線

第1部 中世丘の上の道筋 →jump

第2部 飯田初期城下町の骨格

その1 山伏小道の足跡 →jump  その2 初期飯田城と大王路坂 →jump  その3 三州街道の原形 →jump

その4 町筋の形成 →jump

**

※追補・金森長近と京極高知 →jump

 

 矢守一彦・古地図著作

阪大名誉教授 (1927-1992)で 城下町研究の第一人者だという  浅学にして初めて知った

そこで飯田図書館ネットワークで検索 上郷図書館蔵書 (1988年刊) を借受け

飯田城下町の記述があったが いまひとつ疑問点があり 註にある参考本も借りた(後述)

左は1984年刊の飯田図書館蔵書の「古地図と風景」 右は松川図書館蔵書で1992年刊

いずれも 近世以前の古地図に関する論文集 初めて知る人名も多くて 勉強になった

郷土史家・平沢清人著 「飯田城と近世の城下町」 1972年刊

下にあげる城下町の発展経緯の推測とは異なる考え方だが これにも疑問点

つまりは箕瀬の形成時期が城下町造成より 早いか遅いかの点

なお平沢先生は飯田城天守松本移築説に固執し ここで一項を設けている

(2024・1・22)

 

第1部 中世丘の上の道筋

*

その1 飯坂城と飯沼城を結ぶ線 箕瀬から大王路

小笠原氏系の坂西(ばんざい)氏が愛宕台地に城を築いたのは12世紀末という

一方 上郷飯沼の上段の現在飯沼神社の場所に古飯沼城があったといわれている

注目したいのは 関係しているのが やはり坂西氏であると伝えられている点だ

だとすれば 古飯坂城と古飯沼城を結ぶ線が存在したと考えられないか

図は飯田市美術博物館発行の近世飯田城・城下町旧跡散歩マップから

様式図としてあげられているもの 箕瀬から大横町を経て土塁の外で谷川を渡り

大雄寺から野底川へ下りる道筋が明記されている

その都出橋から飯田線の線路をたどると 素直な線形で飯沼城へ至ることができる

上図は飯田大火直後の航空写真に赤の点線で そのルートを入れてみたもの

一部町筋とは異なってはいるが よく見ると小道が続いている 大火後の区画整理では そのルートが復活し

新設の東和町ラウンドアバウトと吾妻町のロータリーを経て大王路につながっている

以下 箕瀬から飯沼城まで歩いてみることにする

箕瀬2丁目 このあたりは 別項「市街地横断」にも登場

同じ道筋をたどって大横町に抜ける ここだけは横丁でありながら自治会は

知久町・本町・通り町・松尾町とは別組織となっている 中央通りを通過して

先頃完成した東和町ラウンドアバウトを直進 このあたりが大火区画整理で復活したところ

ついで吾妻町ロータリーをこれも直進すると桜町に至り 三州街道を横切る

そこから大王路へ入り ここは大雄寺前 右手に座光寺道の道標

ここからは「歴史景観クエスチョン/大王路・都出橋の名称と飯田線」を逆にたどる道 →こちら

道なりに左カーブの坂道を下る 勾配はそれほどでもないのだが道が狭いので要注意の場所

そして都出橋で野底川を渡る そのまま坂を上って

JR飯田線別府踏切

線路沿いの道は拡幅されて快適となったが 右折して高松通り方面の方が交通量は多い

線路沿いに進めば伊那上郷駅 左手の丘が通称「見晴山」 山城「原の城」があったという

伊那上郷駅にはちょうど飯田駅方面の上り電車が到着

線路は座光寺駅に向かって下り勾配 踏切を渡らずに直進すれば高松通りの上段の中心部にいたる

ここでは伊那上郷駅東側の踏切から線路に沿って進む

さらに高松通りからの主要道を突っ切ると突き当りが高稜中学校グランド

段丘の突端に沿ってグランドの端を歩いて行き

林を透かしてみると古飯沼城の台地が見える 細い進入路から古飯沼城があったという飯沼神社境内へ

諏訪神社だから社殿前に2本の御柱が屹立

東側は300段近い石段で竜坂へ降りていく 神社北側も谷があって古城の雰囲気が残っている

と歩いてみると意外に高低差も少なく 右左折することなく直進のみで来ることができる

古くからの道筋であることを実感した

2013・7・31

*

その2 古東山道と丘の上を結ぶ線 箕瀬・久米路橋・鼎一色

  

 飯坂城が愛宕台地に築城され 初期集落が形成されたのは箕瀬であることは間違いない

 東山道の中段説を採用すれば そこからの結びつきがあったはずで

今回の散歩ルートは その箕瀬から段丘を下り 松川を渡って また鼎の段丘を上り

現在の鼎一色を結ぶ線を体感することとした

鼎段丘へ登る小道は数ヶ所ありそうだが 法面補強された小道を目標とする

なおこのルートはアップルロード方面まで歩くとき よく使う道でもある

箕瀬の枡形からトラ柄の電柱脇を抜けて民家の間を入っていく

ちょうど 「松川街道筋・旧坂の痕跡」 を逆に下りる道である →こちら

狭くて気が引ける通路を段丘突端に50mほど向かい

今度は斜面に沿って 竹薮の脇を下っていく

しばらく下ると いよいよ道なき道

ジグザグに降りて

羽場坂バイパスを突っ切り 久米路橋で松川を渡る 江戸の頃は上橋場といっていたらしい

なぜここが渡渉地点として選ばれたのか やはり箕瀬に近く 渡るの適した瀬があったのではないか

いや逆だ 渡るに都合の良い瀬があったからこそ 箕瀬の筋ができたのだろう

ちなみに箕瀬は「三の瀬」から という説がある

久米路橋から上茶屋に向かうと 右手に石碑群 さらにJR飯田線の踏切を越えて 鼎中段への坂道

この掘割は新しいもので 左に坂を迂回する道がある

そこまで少し下るので 元は踏切の高さから上ったのか 道なりに右へ進むと中段道路に出る

正面に道は続くが これは宅地の進入路 右手30mほどに平行する道路が先ほどの掘割から続く

途中でまた東方向へ移動し 段丘下を緩やかな上りで 井水の管理道路へ出る

ここから果樹園の中を進み 階段道路へ 階段道路は1回大きく曲がり

造成地の脇を通って段丘の上の道路に出る 明快な道はないが この先にNHKのラジオ鉄塔がある →こちら

造成地の突端は眺めがいい場所で 風越山から飯田の丘の上を一望に納める

右手の坂道の上の竹薮を下ってきたわけだ

(2013・8・7)

*

その3 丘の上と座光寺を結ぶ線 旧竜坂座光寺道

段丘の上から下の段に下りる道は 座光寺へ向かうことになる

高稜中学校グランド入り口の右手に飯田線を越える陸橋がある 旧竜坂とみられている

民家の間の細い道を進むと いよいよ それらしい雰囲気

道なりに右に曲がると 竹林の中をヘアピンで方向転換

ウッドチップならぬ厚く積もった竹の葉 実際はかなり暗い竹林を真っ直ぐ下っていく

竹林の間に飯沼の集落を望みつつ 飯沼神社の境内へ

長い石段を見て さらに下り

鶏足院を左に見て 中込商店の手前で新しい竜坂を横切る

右手の飯沼集会所 左手の火の見の旧道にいたる 旧道については こちら

また以上の道は逆方向からも歩いているので こちら も参考に

と東山道(中段説)から別れ 丘の上を通り また東山道(同)に戻るルートを

通してみると図のようになる 結構いい線形をしている

ここで第1部を終わり 続いて第2部 飯田初期城下町の骨格 へ

(2013・9・4)

*

第2部 飯田初期城下町の骨格

その1 山伏小道の足跡

坂西氏が愛宕台地の飯坂城から 長姫台地に移った年代も諸説あるようだが

もともと山伏が住んでいた土地と飯坂城を交換し 飯田城を築城したといい

その飯田城の名称も 三本椙城(三本杉)と呼ばれた とも言われている

愛宕台地にくらべれば はるかに広大で 土地の形状も郭を構成するには適していて

同時にここにおいて初期の城下町の骨格も造られたと考えたいが それ以前にも

長姫台地にいたる小道はあったはずで 以下のように東山道と関係させてみる

前記のように飯坂城から飯沼城への道筋があったとして それを坂西道と呼んでみたが

山伏丸から東山道?への下る崖道と同時に 坂西道との結びつきは箕瀬から

王竜寺川を渡ったところへ直線で向かっていた と考えたい

この場合 当然風越山への山当てビスタを考慮すべきではあるが

むしろ冬の日の出線の方向に ほぼ一致してきそうだ(後述)

本丸の長姫神社から旅館・三宜亭の玄関脇を下る 建物渡り廊下下をくぐると

山伏丸突端のパノラマ風景

さらに民家の脇を抜け ジグザグに下りていく

最後の曲がりからは なかなかの急坂

そこを抜けると眼下に県営住宅・城下団地 道路は水の手線

*

一方神社の鳥居を通して 大横町方向のビスタ

正面 本町ビルの直線に 大横町と箕瀬の王竜寺川の橋方向

風越山の山頂はやや右手に見るが 大きな山塊は意識できる

2013・10・23

*

その2 初期飯田城と大王路坂(新・坂西道)

坂西氏による初期飯田城の規模は当初はそれほど広いものでもなく

むしろ容易に守りを固める自然地形を利用した空掘を考慮すると

後の二の丸あたりまでだったような気がする 生活用水についても

当面は山伏同様 谷川から汲み上げていたのではないか

さらに今までの坂西道との結びつきを考えなくてはならないが

一旦谷川水面まで下りて 川を渡り 大王路坂と結ぶ線が浮かび上がってくる

現在その痕跡は全くないが 地形の起伏も少ないので直線で繋げてみたい

また箕瀬との結びつきも 当初は山伏小道と同様に考えておきたい

そこで今回の散歩は初期飯田城を出て谷川に下る道である

 

長野県下伊那合同庁舎前から主税町が始まるが その手前から右手に下りる道

段丘の突端に出て 歩行者専用道路となって下っていく

その昔は馬場町への武士たちの通り道だったという 現在はビルで突き当たって右に曲がっているが

その先まで下の地盤つまり川面までは まだかなりの高低差がある

この大正年間に造られた新道・谷川線は銀座通りに向かって上っていくが

もともと谷川を渡るためには下っていたはずだ

*

ついで今度は逆に大王路坂から 谷川目がけて歩いてみることにするが

先に述べたように その痕跡はまったくないし ビスタを辿ることもできない

大王路坂はゆっくり右に曲がっていくが そのまま直線的にたどると

風越公園の真ん中を突っ切ることになり さらに飯田警察署にぶつかる

警察署への短いアプローチ道路からは専照寺の本堂屋根を目指したい

小伝馬町筋を通して 民家の隙間に屋根

さらにこれは専照寺の境内 本堂前から裁判所の3階建てにぶつかって

仲ノ町ルーテル幼稚園の脇までのこれも短い道路 着久水酒造の本社跡地を突っ切り

馬場町へでて谷川公園を見下ろす

一方こちらは現在の長姫橋(めがね橋)から伝馬町方面 微妙に曲がっている

右写真は長姫橋から馬場町の裏側 谷川の川面から登れないことはなさそうだ

馬場町の裏側を東方向から見たところ 谷川はこの公園下 かなり低い位置を暗渠で抜けている

*

と谷川を渡る場所は現在から そう違ってはいない という前提で

大王路坂と初期飯田城を無理やり繋げてみた

2013・11・3

*

その3 三州街道の原形 武田軍団の入城

1550年代 武田信玄の下伊那侵攻が始まり 坂西氏は滅亡 秋山信友が城代として

飯田城に入城というが このころ三州街道の原形ができたのではないか

そののち 初期飯田城の拡張や 城下町の萌芽があらわれたような気がする

つまり出丸(追手町小学校)や桜丸(合同庁舎)までの 城の縄張りの拡張と

それにつづく 三の丸(現追手町2丁目・主税町)に 集落の形成を考えたい

これは現在の三州街道 桜町から伝馬町へ この曲がりに枡形があったという

伝馬町1丁目から銀座方面へ下るのだが 道路軸がズレている感じ

 

さらに坂西氏の子孫・織部の時代に 伊勢町や番匠町が造られたというが

それが現在の松尾町・通り町1丁目に対応するのかどうかはわからない

これは大火前の航空写真を見ても 変わっていないようだ

 

1582年 織田信長の長男・信忠が清内路を越えて侵攻し 織部は逃亡

毛利秀頼が入城したというが そのとき飯田の城下町が どのていど

形成されていたかは不明だ ただ翌年(天正10年)には根羽・浪合・駒場と

のちの三州街道を通って信長が飯田城に入り 武田勝頼父子の首を城下に

さらした とあるから ある集積がなされていたことに間違いはなさそうだ

こちらは逆から 銀座2丁目から長姫橋(めがね橋)に向かって下っていく

 

そして家康により入部した菅沼定利の支配をうけ さらに信長なきあと

秀吉により ふたたび毛利秀頼が治め つづく その娘婿の京極高知に

わたっての11年間に 飯田城下町の骨格が造られた といわれている

2013・12・15

※なお今までの冬至線に誤りがありました 5度近く南に振れる模様です

次回 そのあたりも訂正することにします

*

その4 町筋の形成 本町ロングビスタ・朝日&風越山

たまたま追手町2丁目中村さんの住宅が建て替えで解体された際の 追手町筋と風越山

飯田初期城下町の形成において 風水や四神相応との関連を指摘する論文がある

当時それを後付けすることはあったかもしれないが やはり少しこじ付け気味に感ずる

ただ風越山については町筋の正面にはないものの 当時の建物の高さを考えると

その存在はかなり意識されてはいたようにも思える

 

11月30日午前7時26分の本町1丁目と風越山

また別項において 飯田の丘の上の町筋と冬の朝日との関連を述べてはいるが(こちら

初期城下町の形成において 当初から計画的に冬至線から と推測するのも無理があろう

しかし太陽運行上の二十四節気の知識が既にあったとすれば 飯田の町筋に朝日が貫く

ということは たまたまではあるかも知れないが 意図的にも考えられた様な気もする

 

同7時31分 逆に本町3丁目から追手町方向 今 太陽は逆三角形の一時停止標識内にいる

一説には現在の通り町と松尾町の成立時期が早かったともいわれているが

初期城下町の計画時にも 飯田城の縄張りの拡大があった と予想したい

政治体制の確立にともない 領主に仕える家臣団も増加したはずであり

それら家臣も当初は城内だけに居住したと思われる その屋敷のために

近世絵図にあるように 三の丸があてられたのではないだろうか

 

本町3丁目 赤い逆三角形が上記一時停止標識のある大横町

その時点から徐々に濠や門などが整備されたのではないか つまり前記 武田道から

長姫橋を通り 城郭の門にいたる 堀端筋(現・銀座通り)が形成されたような気がする

そしてそれは前述の 坂西道(現・大横町)とも ほぼ平行する位置関係にある

となると そこから箕瀬へ向かう「坂西道とを直角で結ぶ線」つまり現在の本町筋を

まずは考えなくてはならない さらには前段での初期集落を現通り町・松尾町へと

割り振ったと想像してみたい 続いて同様に本町筋の南側に 知久町筋を造った

と推定するのだが 知久町筋の形成は それほど時を置かなかったのではないか

そうして横丁を2本配置し 小京都といわれる短冊状の町並みが姿を現してくる

 

本町2丁目 やや望遠で撮っている 当時は建物は低かったので 風越山はまともに見えたのではないか

注目すべき点は その短冊状の町並みが 江戸期以前に形成されたことである それら

初期城下町を計画・実現したのは誰か  相当に教養に溢れ なおかつ安定した社会を

構築するだけの政治力と 実行するだけの経済力をもった人物 でなければならない

 

12月22日冬至 7時18分 本町筋を朝日が貫く

毛利秀頼と娘婿・京極高知の2代には その所領は10万石を越えていたという

またそののち転封の 丹後宮津における城下町の形成についても 京極高知は

かなり積極的に関わった といわれており 町並みも短冊状に整備されている

その後移ったという田辺(舞鶴)城下町も含め それら都市計画史的な視点から

京極高知 という人物像について 今後さらに研究すると面白いかもしれない

(完)

 

追補・金森長近と京極高知

 信州飯田

早大・佐藤滋教授と城下町都市研究体による 「新版 図説 城下町都市」では

全国57の城下町の空間構成の解析を行い 山当てなどビスタを重要視している

 丹後宮津

たしかに成立時期の遅い城下町の計画手法としては ありうるかも知れないが

近世以前の都市としては むしろ地形的な要素 つまり 土地の起伏と河川の状況

それにともなう 道(街道)などの方が大きく作用しているのではないかと思った

飯田の場合も 上で見てきたように ビスタや冬至線はつけたしの様な気がする

 田辺(西舞鶴)

そこでふと感じたのは 同じ戦国大名としての 金森長近の存在である

多治見に生まれ 織田信長の武将であり 茶の湯に秀でた教養大名として名高く

越前大野と高山と 二つの城下町の形成に携わったとして知られているが

その町割の初期の構成は 典型的な碁盤目状あるいは短冊状といわれている

 越前大野

高知と長近との年齢差は50近く 常識的には直接の結びつきは疑問だが

むりやり共通点をさぐれば 一時近江に住んでいた長近が 近江の名門としての

京極家と そこで生まれた高知を見知っていたことも 考えられないこともない

 飛騨高山

また高知の舅 毛利秀頼もまた信長配下の戦国武将として転戦しているので

秀頼と長近が どの程度親しかったのかも興味のあるところだ いやむしろ

さらに想像をたくましく 秀頼の指示で長近から 町割の教えを請う状況があった

とすれば 嫡男をさしおいて所領を高知に譲った理由も ある程度納得できる

 

とまたまた妄想を重ねてみた

(2015・6・25)

 

碁盤目状か 短冊状か

飯田の町割を碁盤目状と表現する向きがある ただ碁盤目はタテヨコ寸法同じで 街区は正方形に近い

一方 タテマチ・ヨコマチ構造と呼ばれる 町割がある ここでは街区は長方形になり 短冊状となる

矢守一彦・阪大名誉教授によれば 大手門に対し タテに伸びるのが タテマチ ヨコ方向が ヨコマチ構造だという

それらは 主要街道との位置関係で造られ タテマチの方が古い傾向があるらしい

飯田の町割は典型的な タテマチ構造で 4本の竪町と 堀端を含め 4本の横丁から 構成されている

したがって 短冊状の城下町と呼ぶのが 相応しいと思われる

(2023・12・29 補記)

 

**

以下の写真は福井市の一乗谷遺跡を復原した朝倉氏城下町の一部である(松島仙太郎氏提供)

これらを参考に中世当時の飯田初期城下町の町並みを想像してみたい

なお上記・京極高知の出自が近江の浅井氏系であり 越前・朝倉氏とは同盟関係にあったことを

深読みすれば より 「ファンタジー」 が楽しめそうだ

妻入りと平入りの混在 道幅は2間以上はありそうだが ここまで広かったかどうか

さらに左の塀は武家屋敷のようだが これはなかったと考えられる

妻入り家屋の並び 当初はもっと間隔があったのではないか

こちらは平入りの長屋風 妻入りよりも こちらの方がイメージし易い

家屋の裏側は このような畑があったのか

こんな立派な塀はどうかな というところ

街路の裏側は むしろこんな感じかな

こちらはしばらく後の荒町(現・中央通り)や仲ノ町の武家屋敷のイメージだ

2014・1・19

*

今まで大胆な推論と称して 我田引水的に乱暴な異論を組み立ててきたが

少し反省し 資料のない ふと感じた事柄に関しては むしろファンタジーとして

まとめることが適切だと思うようになってきた とくに中世飯田の丘の上に

ついては 点としては様々な研究がなされているものの全体像としては

わからないことだらけで その姿はなかなか想像しにくいものがある

ここでは それらを無理やりつなげ 歴史的にも地理的にも結ぶ線を夢想してみた

 

back