志賀重昂「日本風景論」を読む

1) はじめに

  景観に関する書物として 真っ先にあげられるのが 志賀重昂著「日本風景論」である

  これは地理学者による明治27年(1894年)の刊行で 同35年までに14版が出ていて

  その後 昭和12年(1937年)には岩波書店から さらに同51年(1976年)には 講談社から

  上・下2巻として刊行されたとのこと

  思い立って飯田図書館の蔵書を検索すると 第8版が存在しているらしい

  早速 瀧本さんに書庫を探してもらって借り受けすることになった

  すでに表紙はなく裏表紙のみの姿 飯田図書館の目録では第8版と記されていたが

  奥付を見ると明治29年11月30日刊行の第7版であり 価格は50銭の表記

  出版社は当初からの政教社となっていて 当然 金属活字の活版印刷で

  句読点も少なく 改行もせず ビッシりと活字が並んでいて言葉使いも明治調

  現代文に慣れた身にとっては 読むのには なかなか辛いものがあった

  写真類は全くなく 図版のみで それも著者によるものではなく 2人の画家によっている

表紙はすでにない

2) 志賀重昂(しが・しげたか)とその時代

  文久3年(1863年)に岡崎で生を受けた志賀は札幌農学校に学び

  長野中学で植物学を教えたりしたが 県令とトラブルを起こし丸善に入社

  その後 世界を廻って見聞を深めたという

  さらに政界に身を転じ 衆議院議員として時の大隈外相の条約改正に異をとなえたり

  かなり血の気の多かった人物のようだが その後も世界周遊をかさね

  最終的には早大の教授として生涯を終えたという

  日本風景論が世に出た明治27年は まさに日清戦争の最中で この第7版の出た明治29年には

  日清戦争は終わりを告げ 台湾の割譲により 一部その風景も記載されている

  日本の風景を独自のものとして礼賛するこの本は当時のベストセラーとなり前述のように

  14版を重ねたというが ある種の国粋主義ともみられているようだ

これは裏表紙

3) 全体構成

  基本的には地理学の立場にたって 日本風景の特色を論じているのであるが

  大きくは4つの点に着目している

  

@) 気候・海流の多変・多量なること

  南北に長い列島と海流の影響から 各地方ごとの季節にあわせての 多様な気候の

  存在と それにともなっての多様な動植物による 多彩な風景があること

A) 水蒸気の多量なること

  地形の高低差による降水・降雪により 同じく多様な自然風景の存在

B) 火山岩の多々なること

  火山脈(いわゆる火山帯)の存在による古い火山岩(花崗岩)と新しい火山岩による風景

  とくに火山の多さと それに関係する火口湖などの地形が日本の風景を形作っている

C) 流水の浸蝕激烈なること

  河川により浸蝕され堆積しつくられた風景 あるいは海岸での浸蝕による風景

  石灰岩における浸蝕での洞窟なども ここに入っている

奥付と目次部分見開き 昭和47年に図書館蔵書受入のゴム印

4) 名勝の記述あるいは美について

  以上の各項目ごとに 古今の文学作品の紹介と有名な風景についての解説

  とくに見物するにあたっての 距離・交通手段・時間などについてのかなり詳しい案内を列記

  また火山の項では近代登山の勧め・方法・用具などについても心得を述べているのは面白い

  ただしいわゆる南アルプスの山々に関する記述は皆無であり

  また河川についていえば天竜川についても同様である

  さらに上記名所への文人・画家などの賛を集めたのち 風景保護の必要性を訴えてもいる

  そのあと雑感と称して 上の範疇に入らない事柄 たとえば水成岩への言及

  そして花鳥、風月、山川、湖海など風景美への想いをまとめている

 

5) 景観論への方向性

  いわゆる現代の景観学については別項目で指摘しているように

  様々な立場からの学術的アプローチがある(都市工学・土木工学・社会学・経済学・地理学…)

  とくに地理学では やはり文学作品で描かれた風景からの時代的な変化などから

  現在の景観特性をさぐる という方法があるが まさにその嚆矢としての位置づけを

  この風景論に求めることができそうだ

  ただ景観はそこにある風景とそれを視知覚する人間の存在があってこそ成り立つものである

  この風景論が今から120年前のことを思えば それらへの科学的アプローチを期待するのは

  いささか無理があるといえよう

  さらにここには集落・街並み・耕地などはもとより 城址・寺社あるいは遺跡など人工物にたいしての

  記述もみることはできない やはりこの時代に 風景と社会との位置づけを問うのも酷であろう

  明治政府もようやく安定期に入りつつあり 日清と日露の両戦争の間の国威昂揚の気分の中

  世界のなかでの日本というアイデンティティを 国民に知らしめる という意味での存在

  一般化しつつある中等教育の教養としての 観光案内書として読まれた と想像されるが

  上記の景観論への道筋を予感させるものとしての意義は大きいのではないだろうか

最後のページの蔵書署名 当時の飯田町の伊原さん

ローマ字のサインは g.Ihara となっている まさかあの五郎兵衛さんじゃないでしょうね

6) おわりに

  郷土の歴史研究家・後藤琢磨さんに この蔵書名をみてもらったところ

  即座に これは伊原五郎兵衛さんだろう という答えをもらった

さらに拡大してみると 英文で belongs to g.Ihara と読める 認印も旧字体で伊原と彫ってある

  当時 池田町の漆器店・近江屋の3男として松本中学の飯田支校から松本中学へ転じ

  1899年に卒業 一高・東大を経て飯田に帰郷 国鉄飯田線の前身・伊那電気鉄道の開通に

  力を注いだという飯田の著名人 飯田駅前のバス乗り場の近くには顕彰碑も立っている

  ただ この本を松本時代か あるいはその後の東京で手に入れたかは定かではない

飯田駅前高速バス発券所の南側の頌徳碑 もともとは中央公園にあったものだが(昭和26年建立)

東和町ラウンドアバウト整備にともない平成22年募金活動により移設したもの

 

  この時代の飯田の出来事からいえば 天竜峡十勝が言われたのが明治15年

  宣教師であり日本登山界に歴史を残すウォルター・ウェストンの来訪が

  明治24年(1891年)と同26年に行われていることが特筆される

  その際 天竜川を舟で下って浜松方面に出たという記録がある

  さらには英国のアーサー・コンノート殿下が来訪したのが大正元年(1912年)である

  その間 中央西線は全通が明治44年(1911年) 中央東線が明治39年(1906年)

  上記伊那電気鉄道の伊那市駅までの延伸が明治45年(1912年)となっている

  この「日本風景論」が そのあたりの飯田の近代史のなかで 伊原五郎兵衛をとおして

  どのような役割を果たしたのか 興味はつきない

 

参考 ●景観のなりたち こちら  ●山海社寺景勝図会 こちら  ●天龍峡公園散策 こちら

 

2014・12・7

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