橋と道/文化史景観事始 (街道以前−「○○みち」の時代/改題)

 

掘割・階段坂・隧道 →こちら 横断地下道・歩道橋 →こちら ※飯田Y字路コレクション →こちら

 

橋の文化史景観と人・荷物の移動・運搬

 道あるいは道路の線形・高低・幅については時代に応じて変わってきた

 幅が広まったり曲がりが緩やかになったり 場合によっては新道が開発されたりする

 おおまかに分けると以下のように その時代の移動あるいは運搬手段に対応しているのだが

 実際には川を越えるための橋の造られかたから 決まってくるようだ

 

 @ 牛馬・人の背…丸太橋・渡しの時代…大きな河川(天竜川)では渡し 小さな河川では丸太2本を架け

                          割り板を縛りつけた丸太橋(出水の度に流されるのが前提)

                         …急な坂道・ジグザグの上り下り・狭い道幅

 A 荷車・馬車…木造橋・吊り橋の時代…製材とボルトによるトラス構造あるいは吊り橋(天竜川)

                          木材の腐朽による定期的な架け替え

                         …緩やかな道路勾配・曲率の大きい曲がり・道幅の拡大

 B トラック輸送…コンクリート橋・初期鉄骨橋の時代

                         …木造橋の近くに新橋を建設 道路構造は上の時代のままが多い

                           ただしトラックを使った土砂の運搬による土木工事の進歩により

                           切通しや盛土による坂道が直線化している例もある

                         …永久橋(洪水にも流されない)・耐荷重性の向上

 C マイカー普及…鉄骨橋の時代   …橋の位置は上とは大きく異なる場所になるケースがある

                          …橋の長大化・交通量の増大に対応しての道幅拡大

                           歩道の併設・スピードに対応しての直線化

 

 時代区分的には@が江戸期から明治初期まであり Aは明治中期がそれにあたる

 Bは大正の中期から昭和中期 Cについては昭和後期の高度成長期にあたる

 さらにはコンクリート橋や初期鉄骨橋の架け替え時期にあたり 現在は新たな鉄骨近代橋の架橋や

 交通量の増大に対応しての新しい道(バイパス・農免道路・高速道路など)が開通している

 

※その後 古くからの山道をあちこち歩いてみたが どうも@の時代も さらに分けられるような気がする

  つまり人だけが歩く道と 牛馬の利用が必要とされる道では 道幅や勾配で大きな違いがありそうだ

  別項で 峠へ向かう古道は沢道ではないか と問題提起をしているが 牛馬を利用できるようになって

  さらに新しい道が造られたのではないか とも思える 文化史的に興味のある問題だ (こちら)

 

1) 橋場以前…徒歩による渡渉

  江戸時代の文献・絵図では橋場という言葉が一般的である

  推測でしかないのだが いわゆる日本橋のような橋脚を備えた橋にたいし

  丸太を渡しただけのものが橋場と呼ばれたのではないか

  先にも述べたように せいぜい 4間(7.2m)ほどの長さの丸太を2本渡し

  そこに割り板を縛りつけたようなものを想像したい

  それが架けられる瀬を結びつけたの橋の原始的な形態と思われる

  もちろんそれ以前の時代も存在したわけで

  東山道では徒歩による渡渉が行われていたのだろう

  したがってその位置は合流する水量の少ない山側にあったのではないか

左は松川マレットゴルフ場の丸太橋 イメージ的にはこんなところかな

ただ当時は合板はもちろん釘も無かったが 屋根板(槫木)は豊富だったから

藁縄で縛り付けたのではないだろうか

右は松川の切石上河原橋附近 幕末 京を目指した武田耕雲斉ひきいる天狗党いわゆる水戸浪士が

飯田藩と交渉の末 軍資金の替わりに城下を避け大廻り 藩士の案内で渡渉したという

 

2) 渡し…筏・船

  一方大きな川 たとえば天竜川については 丸太橋は無理で渡しが必要となる

  季節の水量に応じて 渡渉や土橋という手段も使われたようだ

  最初には筏のようなもの 後には小船が利用されていたと思われるが

  いまでも舟渡という地名も存在し 舟渡跡という碑が建てられているところもある

  阿島橋附近の喬木村阿島 弁天橋附近の喬木村伊久間 水神橋附近の秋葉街道知久平の渡し

  時又天竜橋附近の島田の渡し などである

阿島の渡し 左岸喬木村阿島の石碑 すぐ下流に6連のワーレントラスの阿島橋(昭和41年竣工・歩道併設平成3年)

少し下流にきてやはり喬木村伊久間の石碑 右写真竹薮あたりが渡し場のようだ(弁天橋より上流方面)

さらに下流 知久平の渡し附近から見る 上流側の水神橋 昭和54年竣工の鉄骨6スパンの連続梁

 

  丸太・渡しともに川面まで降りる必要があり 川岸の高低差のあまりない場所を選ぶか

  そういった場所がない場合には 急坂をジグザグに上り下りする小道とならざるを得なかった

  そのあたりが水運を中心とした江戸風景にあるような荷車を使えず

  牛馬の背に頼った原因と推測したい

 

3) 木造トラス橋

  別項でも述べているように明治の中頃以降 長い坂道が各地で新設されている

  ここにおいて製材技術と西洋技術によるトラス橋により橋が格段に長くなったようだが

  古写真を見ると橋脚部も木造のようだ

  技術史的には製材と鉄ボルトの使用が可能としたのだが 社会経済学的にみれば

  明治維新による新政府の政治がようやく落ち着いてきたこと

  さらには生糸輸出により 国や地方の経済が飛躍的に伸びたことも一因であろう

  ただ風雨にさらされて定期的な部材の取替えなどメンテナンスの必要性はあったものの

  それ以前のように出水の度の橋の流出がなくなったのは大きな変化に違いない

左が通称黒橋と呼ばれた旧飯田橋 右は旧久米路橋

(「下伊那写真帖」大正3年刊 昭和63年復刻版より)

なお上記写真本は当時の風景を知るうえで まことに貴重な資料である 全体を通してとくに気づくのは

現在に比べ緑(樹木)の量が圧倒的に少ないこと 推測でしかないが 木質燃料としての利用が

大きかったからの様な気がする ただ最近読んだ本によれば 肥料やマグサの供給元として草原が

厳重に管理されていたようで そのあたりも農村景観の変化の一因かもしれない

 

4) 木造吊り橋

  渡しが行われていた天竜川にも上記の技術進歩により吊り橋が架けられるようになった

  ただしこれも耐久性の問題で幾度にもわたって架け替えられる必要があったようだ

  一般的には15年程度のようだが 中には30年近く使われた例もある

  このあたりはメンテナンスや交通事情・社会事情によっているようで

  興味深いところでもある

左 弁天橋(明治44年) 右 水神橋(明治41年)

左 南原橋 流失や落橋を繰り返した すさまじい歴史を持っている

これは明治32年に竣工した8代目といわれている(その後3回架け替え現在のアーチ橋は12代目)

右 天竜峡姑射橋 これは明治38年に竣工した2代目らしい

時又 天竜橋 初代が明治30年 2代目が明治41年の竣工という 手前が舟渡地点のようだ

以上の写真はすべて上記写真本によっていて撮影位置も下流からと思われる

 

  なお天竜川を渡る荷物の運搬手段として索道が利用された時期があるようだ

  荷車・馬車を前提とした木造吊り橋にたいし 動力を使っての空中運搬であり

  しばらく使われていたようだが 下にあげるコンクリートや鉄による永久橋の出現で

  いつしか姿を消していったようだ

 

5) コンクリート橋・コンクリート橋脚・アーチ橋(上路・下路)

  大正から昭和にかけて大小を問わず架けられたのがコンクリートの永久橋である

  同じくコンクリート製の橋脚をもつ連続梁による橋梁

  あるいは道路を下側にもつ下路アーチ橋 川幅が広ければ連続するアーチとなる

  川面から高さがあるものについては上路のアーチ橋となる

左は上村木沢の上島橋 右は旧遠州街道151号線万歳橋(万歳大橋から)昭和10年

 

  その多くが寒水石を使った洗い出し仕上げで デザイン的にも余裕ができて

  欄干や親柱など大正・昭和のアールデコ調の装飾は いまでも我々の眼を楽しませてくれる

  同時に三代の夫婦を始めとする盛大な渡り初めが行われた様子で 記録写真にも残っている

左は鼎橋(ふるさと写真館「飯田」 より)昭和10年  右は旧久米路橋の渡り初め(「飯田・下伊那の今昔」 より)昭和14年

(写真集 思い出のアルバム 飯田の昭和史から) 昭和12年 飯田中学全校宿泊野外行事

松川橋は3代目になるようだ 最初は木造トラスで 当時「白橋」と呼ばれていたという文献を読んだ記憶がある

(写真集 思い出のアルバム 飯田の昭和史から)

2代目が昭和8年に完成した永久橋 上の鼎橋 ・久米路橋)に較べると かなり早い

つまりこのころには羽場坂とつないだ三州街道が主要道路になっていた ということのようだ

こちらも昭和8年竣工の毛賀澤橋 (現在は解体され 鉄骨の新しい橋になっている)

ここも駄科の掘割ができる前の旧道部分 こちらは遠州街道の使われ方を物語っている

(松川橋補足 2101・2・4)

 

  また橋の名称が確立したのも この時期からのようだ

  ただ残念なのは耐用年数に近づき クルマのすれ違いにも余裕がなく

  しかも歩道の確保が要求されて 再び架け替えられてしまっている例が多い

左は鼎橋 歩道鉄骨橋併設 右は久米路橋 平成6年に架け替え

 

6) 初期鉄骨橋・上路アーチ橋

  架橋位置により 橋脚スパンが長くなって コンクリートアーチが架けられない場合

  鉄骨のやはりアーチ橋が架けられたようだ

  腐食の問題からメンテナンスのし易い 下路アーチとなったようだが

  鉄骨部材の経済性を追求して細いアングルを使ったリベット打ちのアーチとなる

  この度架け替えられた時又の旧天竜橋がその典型であるが

  ここも歩道橋は併設されたものの やはり上と同じ理由で架け替えられる運命にある

天竜橋の3代目は鉄骨リベット打ちのタイドアーチ橋(昭和10年)

 

7) 長大橋・近代アーチ橋・近代吊り橋・斜張橋

  昭和30年代後半からのいわゆる日本経済の高度成長期から

  マイカーの普及によっての猛烈なモータリゼーションが全国的に進んだ

  同時に土木技術も 材料の高性能化や構造計算・施工技術の進歩により

  形態的にも性能的にも優れた近代橋が出現した

  大きな谷を跨ぐ長大かつ幅広な橋が可能となり 道路の高速化のための

  直線化が計られるようになり道路景観が一変することとなった

  飯田周辺ではあまり見られないが造形的にも特長のある土木工学の華として

  景観の中心をなしているのは周知の通りである

国道151号線の万歳大橋 右は旧道の万歳橋から見上げる鉄骨上路アーチ(昭和47年)

左は昭和41年竣工の弁天橋 3スパンの鉄骨連続梁だが大型車が通るたびに大きく揺れる

右はこのほど竣工した4代目の新天竜橋 上記上流側の旧橋はすでに解体されている

天竜峡の鉄骨下路アーチ橋 「姑射橋(こやきょう)」

当初は吊り橋 その後 上路コンクリートアーチ橋となり天竜峡の象徴として知られたが

橋脚一杯までの高水にあって架け替え 景観的には今ひとつ 面白みにかける

姑射橋下流400mほどの公園内の人道鉄骨吊り橋 「つつじ橋」

近代アーチ橋の南原橋 水神橋からも見えるのだが いかんせん逆光で目立たない

といって下流南側の鵞流峡方面からは樹木に阻まれ まともに見ることができない

堤防の先の畑の中から撮影したが 美しい形だけに日常的に見られないのは残念

*

南原橋から鵞流峡を見下ろす ちょうど舟下りの小舟が通過

やはり いくらか恐い感じはする

実はこれについては書くべきか 書かざるべきか ずいぶん逡巡してきたが 水面から高さ40m

ここは昔から身投げの名所として語られてきた ネット上でも心霊スポットとして紹介されているようだ

欄干から川面を不用意に見つめていれば 確実に通報されパトカーがスッ飛んでくるので ご用心

(2011・4・15)

2月の末 鵞流峡上の道を通りかかった際 葉の落ちた木々の間から 南原橋をみることができた

(2017・3・2)

  南原橋は飯田周辺の橋の中でも 流失や落橋を繰り返した

  すさまじくも また異色の歴史をもっている

  ただ大正6年に架橋された9代目の吊り橋が架け替えられたのは

  昭和20年であり 実に29年の長きに渡って使われていたようだ

  その後の10代目の吊り橋は15年で 昭和35年に11代目の吊り橋に架け替えられ

  さらに15年後の昭和50年に近代アーチ橋として現在にいたっているのだが

  文化史的にみるとまことに興味深いものがある そのあたりは

  追手町小PTAとしてお世話になった 郷土研究家でもある大原千和喜先生が詳しく

  機会をみつけて じっくりと話を聞いてみる予定

2011・4・10

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街道以前−「○○みち」の時代

1) 「街道」か 「みち」か

  しばらく旧道の探索を続けていて 違和感を覚えたことがある

  日常的に○○街道という呼び方に慣れ親しんではいるが

  ときどき文献などでお目にかかるのは「○○みち」という呼び方である

  この場合 ○○には道の行き先の場所が平仮名で入るようだ

  したがって極端にいえば 行きと帰りによって呼び方が違うこともありうる

  むしろ旧道を歩く際には「街道」というよりも「みち」の方が相応しいようにも思える

  そこでここでは大胆に「街道」と「みち」との違いを推測してみたい

 

2) 街道という言葉 

  国語大辞典などによれば そもそも海道という言葉があり

  続いて広い道も同じように呼んだらしい さらに東海道と区別するために

  街道という言葉を当てたようだ

  江戸時代五街道が制定されたが それ以外については街道とは呼んでいない

  一般的に使われたのは明治期になってのようだ

箕瀬を抜けた殿町の入り口にある飯田最古の道標(慶長以前といわれている)

左に三州 右に甲州と刻まれている

3) 交通手段と道幅・線形・傾斜

  飯田周辺においても明治の中頃に製材による橋の架構が可能となり

  傾斜の緩い長い坂道の建設が盛んに行われている

  ここにおいて人や牛馬の背による物資の運搬から

  荷車や馬車の利用が可能になったと思われるが

  道幅も広くなったと考えられる

  つまり牛馬のすれ違いから荷車のすれ違いのための道幅の確保である

  おそらくこのあたりで街道という呼称が一般化したのではないか

 

  いわゆる三州街道の旧道にk id’s さんを案内した際 指摘されたのは道の狭さである

  彼女は大町の出身で1間に満たないような道など知らない というのだ

  たしかに安曇野の平なところでは最初から荷車使用が前提であり

  それがすれ違うだけの道幅が必要とされたのであろう

  飯田周辺の旧道はさきの三州街道や遠州街道また秋葉街道など

  いずれもそれほど広くなく 現在はクルマが1台通れるだけ あるいは通行不能の部分もある

   道幅と その呼び方については大いに関係がありそうだ

 

   当然それは道路の傾斜と線形も関係していて 荷車の通行が前提となった明治期の道路は

  勾配も緩やかであり 曲がりも大きくなっており その分距離も長くなっているようだ

  その後 コンクリートの永久橋への架け替えと自動車交通の一般化

  さらには交通の高速化が 長大な橋の建設を要求し

  道路自体も今まで以上に幅が広くなり カーブの曲率も大きくなってきている

  ただし道路の傾斜については むしろ直線化の方が優先しているようで

  山麓を通る道路では 昔日には考えられないような急勾配の道路も出現している

 

4) 遠州街道について

  現在の151号線を遠州街道と呼ぶことがある

  飯田市の八幡を基点として浜松方面に向かう道で 金刺街道と呼ぶ文献もある

  現在の浜松市引佐町金指のことを指しているものと思われるが

  字句の間違いが生じたのは想像をたくましくすれば

  「かなさしみち」が金刺になったとも考えられる

  遠州という呼び方はあまりにも漠然としているので

  むしろもっと近いところ たとえば「にいのみち(新野道)」という

  呼び方があったかもしれない

八幡鳩ヶ岡八幡宮の正面にある宝暦年間(江戸中期)の道標(飯田市史跡)

右 しもじょう(下条)道 左 あきは(秋葉)道と読める

5) 「○○みち」という名

  以上のことからここでは街道と呼ばれる旧道の呼び方を 「○○みち」と呼ぶことにしたい

  三州街道の飯田以北については「いなみち(伊那道)」であり

  飯田以南については「みかわみち(三河道)」と呼んでみたい

  逆に伊那からは「いいだみち(飯田道)」 同様に三河方面からも

  おなじく「いいだみち」と呼ばれたのではないか

  あるいは行き先をもう少し近く設定して「ねばみち(根羽道)」

  「あすけみち(足助道)」 北方面では「いいじまみち(飯島道)」といったかもしれない

  当時の社会の範囲の狭さ あるいは町・宿場・目的地のイメージの大きさがその基準のような気がする

  また寺子屋との関係での識字率の問題にもつながっていきそうだ

  (町場の寺子屋では地名を教えることが かなり重要視されていたという)

  山本から清内路に抜ける梨子野峠は「みのみち」と呼ばれていたらしいが

  おなじく飯田から大平宿を通る大平街道も同じように「みのみち」と呼んだ可能性もある

  さきの街道という言葉の使われた時期と同様 以上の問題を提起したい

これも飯田市の史跡 鼎下茶屋の道標 やはり宝暦年間のもので

右 やわた(八幡) あきは(秋葉)みち 左 いくま(伊久間)みち と読めた

伊久間は天竜川の渡しを使って 対岸の喬木村

*

2010・9・17

 

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