山越えビスタ/道の彼方・峠の予感

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1) 山の向こうに何がある

  山のあなたに 幸いが住んでいる かどうかはわからないが 別の世界があることは想像できる

  そんな Another World への入り口でもあり 今この世界からの出口が 山と山との狭間である

  それを山越えビスタと呼んでおく

  山に囲まれた生活から そんな山越えビスタを目標にして最短距離で向かうのものが道である

  そしてその先には必ず峠があり そこを通って別世界に下りていく

  だから歴史的・文化的にみると景観上重要な概念のような気がする

  飯田市は長野県南部中央アルプスと南アルプスの前山伊那山地の谷間 伊那谷の南端に位置する

  したがって北方面は駒ヶ根・伊那まで 狭くなったり広くなったりしながら天竜川の河岸段丘が続くのだが

  残る三方は山ばかりの景観となる そして山と山の狭間に開いた街道で峠を介して他地域と結ばれている

 

 

2) 北方向の山越えビスタ…駒ヶ根・伊那方面

  天竜川の河岸段丘は東北方面から松川町あたりから やや曲がりながら北上する

  したがって飯田方面からの山越えビスタは西山の裾野に伊那山地が重なり合う形になる

 

 

   だが天竜川左岸の高木村の高台からは河岸段丘が見通せる位置になる

3) 西方向の山越えビスタ…大平街道木曾方面

  風越山の左 笠松山との狭間にある山越えビスタが大平街道である

  松川沿いに進んだあと山間を上って 飯田峠にいたり大平集落を通過して

  木曾峠からクネクネと下りながら木曾方面 妻籠にいたる 大平街道についてはこちら

  街中からは建物に邪魔されて狭間が見渡せる場所は意外に少ない

  市役所の建物の間から望む大平街道の山越えビスタ

 

4) 南西方向の山越えビスタ…清内路方向・御坂峠方向・三州街道冶部坂峠方向・鳩打峠

  高鳥屋山の南 梨子野山の山裾の山越えビスタは 上記3方向へ向かっている

  すなわち駒場から清内路方面へ阿智川と併走し 途中から平谷・根羽を経て

  豊橋にいたる三州街道が分かれ 続いて園原から御坂峠を経て中津川にいたる

  旧東山道がさらに分岐する

  なお清内路への近道として 梨子野峠を越えるルートも昔日は使われていたようだ

  そして清内路からは清内路峠を越えて 大平街道と合流し木曾方面妻籠にいたる

  箕瀬坂から鼎段丘を通して恵那山方向

  地形図によれば右の山裾のくびれのさらに奥に梨子野峠があるようだ こちら

  手前の山塊が左 二つ山と右 三つ山 中央道・三州街道ともにその間を抜けていく

  さらに右に視線を転じると 中央の高鳥屋山とその右 笠松山の間の窪みに鳩打林道が通っている こちら

  茂都計(もっけ)川に沿った林道は鳩打峠から黒川に沿って旧大平集落に至り 大平街道と合流している

 

5) 南方向への山越えビスタ…下条・新野をへて遠州街道方向

  天竜峡を終点としての河岸段丘に別れをつげ 山間部に入るルートは

  明確な山越えビスタはない

  天竜川と離れて南下 新野高原に上がり新野峠を越え愛知県に入り

  新城から最終的には金刺にいたる遠州街道(金刺街道ともいう)である

  こちらの方向は鮮明な山越えビスタは見られない

  写真の中央あたりの色の薄くなった山塊あたりを通っているようだ

 

6) 東方向遠山谷への山越えビスタ…小川路峠を越える秋葉街道方向

  手前のレンガ色の建物(飯田橋外科)の真上の山の端が小川路峠(別名:辞職峠) こちら

  実際には最も低い部分の左側の頭が峠になる様だ

  地図上で確認すると 遠山谷の上町(かんまち)宿へは距離が近いためと思われる

  飯田線開通前はここを通るか 小渋から大鹿村さらに地蔵峠経由

  赴任した役人が嫌になって辞職する ということで名がついたという話

  平岡駅ができると飯田線廻り となって忘れられた道となった

  その北側に赤石林道が赤石トンネルで開通

  近年はさらにその北側にに矢筈トンネルが開通 将来の三遠南信自動車道となる予定

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2010・3・22

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古道の探索

1) 古道の存在

  明治中期以前の道を古道と呼びたい

  いわゆる○○街道という呼び方は別項 (こちら) にもあるように明治中期からと思われるが

  そういった主要な道のほかに 上に見るような峠道が使われていた

  主要な道は古い民家も建ち並び 現在も旧道として使われているものの

  古い峠道は今や忘れられた存在で 実際にその跡を辿るのも なかなか難しいものがある

  今までも折にふれて そんな古道を探索してきたが 少しそれらについてまとめてみたい

  

2) 沢道としての峠道

  山を越えるところが前述のように峠であるが 峠道は基本的に沢登りとなる

  尾根道は曲がりくねり アップダウンするのが一般的であるが

  沢道は多少のジグザグはあるものの直線的であり また上りのみが続くことが多い

  小さな川に沿って遡り 空が大きく開いた場所 つまり峠に至るのだ

  実際に歩いてみると 沢に沿って上るのは林の中なので 陽のあたらない風景が続く

  ところが見上げる木々の間に空が見えるようになると 沢から離れ 場合によっては尾根道になり

  ようやく鞍部つまり峠に到達し 今度は同じように沢に沿って下り 次の集落に向かっていく

 

3) 道の勾配よりも最短距離

  飯田下伊那の場合 前述のように川を越えるためには 川に降りるための急勾配の道となる

  そこでは必ず上流に向かって降りていることも 降りるための距離を考えれば当然といえる

  もちろん荷車などは使えず 交通手段は歩きであり 運搬手段は人の背や牛馬の背に頼るわけで

  歩くとなれば最短距離を選ぶことになる とすれば多少の勾配よりも優先しているようだ

  つまり古い道は直線的に目標を定め 向かっているように思える

  これは自転車などでも経験することだが ダラダラとした上りよりも 自転車を担ぎ上げ

  急勾配の坂道を登る方が 気分的には楽なような気がする

  

4) 三十三番観音・茶屋の存在

  ただやはり坂道の上りは辛かったようで 峠道には石造の三十三観音の設置例が多い

  峠道のそれぞれ両方から置いてあり 上る際の励みになったのではないだろうか

  一説によると石は現地で調達し 彫り上げたといわれているが詳しいことはわからない

  さらにちょっとした平らなところには茶屋の存在が伝えられている

  あきらかに人工的な石垣の断片などを見分することもある

(2012・6・23)

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古道・沢道説の展開

1) 大平旧街道の沢道登りから

  先日大平街道の旧道を歩いてみた 現在の県道が あまりにも距離が長く

  古くからの道がどうだったのか体験してみる必要性を感じていた

  上にもあるように 本来の古い道は沢道であると 常々思っていたことだが

  あるところで野外教育研究財団の羽場さんと同席した際 そんな話をしたところ

  沢道はつねに崩落しているから とやや疑問を呈されていた

  松川の一の瀬(市瀬)を渡渉し 南沢にそって林道をしばらく歩く

  その部分についても多分沢道が続いていたと想像したいところだが

  問題は山道に入って飯田峠へ向かっての約300mの登りで これには閉口した

  当然 南沢に入る小さな沢が連続するわけで そこではほぼ確実に道が消えているのだ

  現在 旧道は地元を始めとする有志によって 定期的に整備されているらしいが

  春先のことで 未だ崩落そのままの状態 昔も同様だっただろうな と納得した

  頻繁に使う道であれば 雨が降ったあとは必ず見廻り 補修を行っていたんじゃないか

  と推測できた

    

2) みの道・梨子野峠青木ルート

  みの道 山本から清内路に抜ける峠道を歩いた際 感じたことは

  清内路側の沢道にくらべ 山本側の尾根道が どうにも納得できなかった

  清内路側は小さな沢には木材で小橋が掛けられており 随分歩きやすく

  距離も短かった印象がある

  一方山本側は途中から尾根を歩くかたちで大廻りしている

  もしかしたら尾根道ができるもっと前には青木の沢から直接登るルートが

  あったのではないか とも感じた

3) 小川路峠上町からの登り

  同じような疑問は小川路峠を歩いた際にも感じた

  歩いたのは飯田側から上町方向だけなので何ともいえないが

  上町へ降りるすぐ手前の赤石林道の2ヶ所のヘアピンカーブを含む

  大きな曲がりが ここでも納得できなかった

  みの道と同じく 沢筋の堰堤から直接尾根に登る道が その昔には

  あったのではないか とふと思ったりした

  結局は沢の崩落の頻度(地質・地形的条件)と補修にかける手間

  (道の重要度・関係集落の社会的・経済的条件)の問題 さらには

  牛馬の通行の必要性などから 大廻りするルートが造られたのではないか

  と強引に推測してみた

 

4) 東山道・御坂峠園原側の想像

  文献によれば東山道の御坂峠は難所として書かれているらしいが

  上記の想像からすれば 沢から峠に登る崩落の多い急峻な部分が

  それを指しているのではないか と思われるのである

  これも中津川から登ったことはないので 推測でしかないのだが

  現在の園原からの山道は 早めに尾根側に上り 中腹を巻くかたちで

  難所といわれるには やや疑問をもつ道筋のように思える

  やはり ある時期に上記のような理由で 一般道として造られたのでないか

  ここでも同じような感想をもった

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と まあどうでもいいことかもしれないが 大平旧街道を歩いてみての感想を

少し大げさに発展させてみた

(2013・5・27)

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