昭和レトロ遺産

昭和30年代を中心に各地で造られた火の見櫓については別項とします こちら

追手町小学校詳報 →jump 講堂兼体育館インテリア →jump 街角丸ポスト →jump 旧飯田測候所文化財改修 →jump 

旧飯田公民館写真&設計図 →jump 仲ノ町・教育会館内部一般公開 →jump 下久堅・旧瀧澤醫院 →jump

山本・杵原学校実測調査 →jump 裏山しいちゃん元町空き家利用 →jump 浜井場小・円筒校舎内部 →jump 

昭和黒壁住宅 →jump 上村旧木沢小学校木造校舎 →jump 昭和初期メゾネット貸家 →jump 

旧海軍豊川工廠川路分工場 →jump

 

※おまけ 阿智村駒場銭湯 旧玉の湯 →jump

 

追手町小学校講堂嫌体育館屋根改修

行われていた改修工事が終了

2重屋根になって 厚みが増したはずだが 印象は変わっていない

これなら ほとんどの人は気が付かないだろう

新しい艶消しの赤錆色も 違和感は全くない

(2022・6・7)

*

旧飯田城出丸跡に建つ追手町小学校 冬枯れのメタセコイアの奥に講堂兼体育館

国指定登録有形文化財の屋根の改修工事が始まっている

完全逆光のため判読が難しいが 既存の鉄板瓦棒葺きの上に木毛セメント板を敷き詰めている

この上に さらに表面材で葺くような感じだ つまり2重屋根にするようだ

(2022・1・18)

 

追手町小学校

登録有形文化財 昭和4年竣工

外壁仕上げは寒水石洗い出しだったが

現在は表面に透明な保護塗装

校舎のグランド側

追補/追手町小学校詳報 →jump

 

講堂兼体育館は昭和6年竣工 鉄骨造だというが内部造作は木造風

追補/講堂兼体育館インテリア →jump

小学校から追手町を200mほど下ると 飯田美術博物館と併設して旧柳田国男の移築書斎

旧柳田邸書斎の北側にあるのが日夏耿之介記念館 ただこれは大久保町にある旧宅(右)と

まったく同じ間取りで復元したもの 日夏旧宅については こちら

 

浜井場小学校円筒校舎

昭和30年竣工 全国的にも珍しい円筒校舎 インテリアは →jump

 

仲ノ町周辺

浜井場小学校の学区 仲ノ町の教育会館 このたび内部が一般公開された →jump

外壁は木ではなくサイディングで補修

教育会館の1軒おいて並びに旧高野産婦人科医院

板張りの外壁

仲ノ町を下って横道の江戸町に 廃業した銭湯 「玉の湯」 解体されました

 また左の建物も解体され現在「春草公園」の一部となっています

 

橋北台地の突端には旧飯田測候所 大正11年竣工の木造建築 (2012・4・20 登録有形文化財に決定)

この写真は隣接する飯田子供の園保育園の新築に際し 仮園舎として使用していた時のもの

左側面 周囲は畑で この裏には東栄公園があり 小道をたどると旧二本松遊郭にいたる

文化財整備については →jump

なお ある発表会において某大学の院生が上の教育会館とともに擬洋風の建物と紹介していた

おいおい明治期の大工の棟梁が見よう見まねで造った建物が擬洋風でしょうが

近代建築教育を受けた技師が図面をひいた建物を それというのは お恥ずかしい

そのことを指摘しない指導教官ひいては その大学への私的評価は著しく下がってしまった

玉の湯から北へ戻って浜井場小学校近くの 小伝馬町教会

右は小伝馬町本通から見える教会裏側

 

教会からみで吾妻町教会

 

愛宕町周辺

 

鼎橋 昭和9年竣工 趣のある欄干 仕上げはやはり洗い出し

橋を渡ると愛宕坂

奥の左に旧喜久水酒造の愛宕蔵と右は旧長野県酒販の倉庫2棟

愛宕蔵を裏側から見たところ 現在市の持ち物

愛宕坂を上りきって 横丁から 知久町の1丁目に「ボン松屋」

 

本町から知久町周辺

雰囲気のある街角・元町附近

右の空き家を利用の計画 →jump

本町4丁目の正直屋酒店の蔵と通り町に抜ける横丁

こちらは本町から知久町に抜ける横丁 もも焼きの「朝日屋」

 

知久町筋の牛木歯科医院 右は歯医者つながりで松尾町 長瀬歯科の旧医院

飯田駅は古い駅舎を大胆に改装 跨線橋は昔のまま

飯田線を跨ぐ白山通りの白山橋のたもとに平栗邸

白山橋は昭和31年竣工

これは松川を渡る飯田線鉄橋の石造橋脚

 

飯田から上って砂払町の砂払浄水場

飯田を見下ろす高台 入り口が一番下

上段の浄水池

下段の浄水池

 

その脇に管理棟

 

砂払から松川源流に下りていくと

松川第四発電所

 

今度は飯田市街から段丘を降りて鼎方面

旧鼎郵便局 現在未利用

旧森林組合事務所 全面的に改装され

わずかに基礎にコブ出しの石材

同じく鼎 民家の立派な門柱

何かの施設跡地か

 

さらに国道153号線で西部地区 山本方面

杵原学校 旧山本中学校木造校舎

山本地区から阿智村に入って 左は旧駒場郵便局 現在史料館

右は山本から下って三穂郵便局 もはや廃墟状態 (解体)

 

三穂から高松峠を越えて国道151号線に入り天竜峡方面

JR天竜峡駅舎

 

天竜峡の姑射橋は現在化粧直し中

右は天竜川を渡っての街道筋の民家

 

天竜峡から飯田方面に戻って時又

JR飯田線時又駅の木造駅舎(※いつの間にか解体されました)

 

時又駅から商店街を歩いて天竜橋

リベット打ちの鉄橋だが 現在この脇に新橋建設中 いずれ解体の運命

(※これも解体されました)

 

時又から国道151号線をさらに飯田方面八幡周辺

街道沿いに廃業した写真館(解体)

右は松田屋本店

少し天竜峡方面に戻って 丸西産業旧事務所

現在飲食店として利用 その後 別の経営者で営業 こちら

JR伊那八幡駅舎

その近くの変電所

 

ずっと飯田線で北上して山吹駅近く

山吹変電所

2009・3・6

*

追加:阿知川レトロ2題

万歳橋 昭和10年竣工の上路アーチ・コンクリート橋

立石発電所 昭和5年竣工

(2011・4・13)

*

ちんや食堂の解体

箕瀬 2丁目の「ちんや食堂」 長らく空き家となっていて 傾いだ姿が独特の風景だったが

ついに先月解体され更地になった 奥に長く土蔵まであって いかにも町家の敷地 25年ほど前

子供たちと オバさんが作るラーメンを食べたことは 元善光寺駅前のオリオンとともに貴重な記憶

(2012・4・2)

*

追手町小学校詳報

屋上三角点を確認に訪れてみた

現在昇降口は木造のポスト&ビーム構法で造られている

外壁は厚さ75mmの角ログを柱に落とし込み 市内公園の公衆トイレと同じ工法

左が本来の玄関 ガラスの中に子供と遊ぶ名物校長・中村七五郎の木彫像 1階は昔から1年生の教室

今や1クラスのみ 昭和22年生まれの学年は5クラス 仁・義・礼・智・信 の儒教・五常の徳が学級の名前だった

筆者らは戦後まもなくの学年で3クラス 昭和32年六年仁組の卒業

昔からのアピトン板の階段を上って2階へ 壁は木板に化粧直し

2階手前が職員室 その隣が校長室 校長には抜かりなく景観インタビュー

屋上は雨漏りがひどく置き屋根に 事務所開設したての頃 教育委員会から某建設会社へ

さらにそこからの依頼で設計図面を作成した 建設当時は尺寸法で100m近い長さのため

10cmほどの違いがでて注意書きを記入した記憶

左周りに俯瞰風景 グランドと体育館

プールと隣の飯田美術博物館

さらに長姫神社方向 なおこの階段室屋上手前に三角点がある

もう少し左に振って 橋北台地の突端から上郷台地方向

(2012・4・28)

*

追手町小学校講堂兼体育館インテリア

やはり天井と方杖のリズム感は雰囲気がある ステージ裏は倉庫など

サッシはすべて木製 この裏が体育器具倉庫になっている

(2012・8・23)

追手町小学校外壁補修足場

もともと洗い出しという当時の左官工法での外壁だったのだが

その上に樹脂で塗装をかけて改修 その後 それも経年変化で やや見苦しい姿だった

そこで夏休みをフルに使っての補修開始 そのための足場組立て

現在と同じ樹脂系での補修となるようだ

だんだんと工事は進んでいるようだ

校庭側も足場と仮囲い

(2012・8・29)

外壁全面補修完了

外壁補修作業のつづいていた追手町小学校 ついに足場がとれて工事完了

白っぽく剥げていた部分もふくめて 新たに樹脂膜を貼っての全面補修

西側の玄関から屋上の階段室まで 塗装完了

グランド側のアクリルリシン吹き付けも終わった

(2019・12・31)

 

廃村集落・大平宿旧大平分校

大平街道の大平集落が4軒が類焼した火災後 集団移転したのは昭和45年

それまでの大平分校も廃校となった 写真は街道右手の集会所 この奥に旧分校

現在はどうかわからないが 一時泊り込みのできる野外施設として利用されていたようだ

覗いてみると洋小屋を組んだ木造校舎で 壁は土塗りの上に板張り

右は付属する炊事施設だが 使われた形跡はあまり無い

飯田市内の丸山小学校の分校だったらしく 冬場には山を下りて寮生活をして本校に通っていたという

(2012・10・8)

 

旧飯田測候所文化財改修

これは改修前の公開説明会

そして改修工事がはじまり 南側の増築ブロック建物を解体

登録有形文化財としての改修がほぼ終わった旧測候所 おりから満開ソメイヨシノは隣接する東栄公園のもの

敷地内裏側のソメイヨシノは開花の測定木だったという

右は飯田最古の鉄筋コンクリート造という倉庫 左は飯田城址二の丸の脇坂門を移築したものだが

もともとは この敷地にあったものだという ただあまりにも両者が接近しすぎ

もう3mほど南に寄れなかったのか 様々な事情でこうなったとは推察できるが

意外に倉庫が雰囲気があるので カブっているのは残念な気がする

(2014・4・30)

 

旧飯田公民館写真&設計図

現在の中央公民館の改築前の建物写真を譲り受け

高校のころは市内高校生の美術展やら音楽会やらで お世話になった

旧写真とともに思い出が蘇ってきた

特徴のあるアーチ構造は 大学2年の夏休みの課題でスケッチを提出

講評の先生からは質問を受けたが 設計者は知らなかった

このほどその青写真の設計図が発見された 竹中工務店の技師によったという

図面については後日 補足したい

(21014・12・14)

先日所用で飯田歴史研究所を訪れた際 保管している旧公民館の図面を閲覧させてもらった

左が製本された図面の表紙で教育委員会の倉庫で見つかったもの

右が1/100で描かれた2階平面図

立面図も1/100で描かれた青焼き図面 昔日は和紙に烏口でインキングして 太陽光線で感光させ

アンモニアの蒸気で現像したものだ その後ジアゾのコピー機が普及し白黒反転した図面に替わった

1/20で丹念に描かれた矩計図 設計名義は竹中工務店東京支店長・小林利助だが実際は若手が設計したようだ

(2015・3・31)

 

谷川橋旧写真

りんご並木に向かう広い道路 この部分が橋だと認識している人は少ないのではないか

下の写真は完成間もない昭和28年ころ 手前の駐車場建設以前で鉄筋コンクリート上路アーチ橋の優美な姿

今は廃業した八幡の久保田写真館から飯田歴史研究所に寄贈された写真の中の貴重な1枚

さらにそれを樋口研究員がトリミングしたものを 無理やりお願いしていただいたもの

すぐ近くに住んでいたので冬の雪の土手でのソリ遊びや夏草の情景など まざまざと思い出した

中央公園下の市営駐車場から 中央公民館前の公衆トイレ脇まで

谷川橋のアーチ下をくぐる歩行者通路 地下探検といえば大げさだが

昭和27年竣工 大火後の区画整理当時の雰囲気が かすかに漂っている 右は公衆トイレ側から駐車場方向

(21015・5・25)

 

教育会館内部一般公開

仲ノ町の教育会館は昭和13年竣工の登録有形文化財

玄関と地元出身の国語学者・西尾実先生の胸像が置かれた通用口

下伊那教育会の総会に合わせた一般公開に20人ほどが参加

木造建物の裏側に建つ鉄筋コンクリート造3階建ての参考館の内部説明

当方はむしろ木造棟に興味があり 見学グループとは離れ

2階の講堂へ 2時から始まる総会準備真っ最中 こちらはステージ側

逆側の受付方向 さすがに風格を感じるインテリア

(21016・7・26)

 

下久堅・旧瀧澤醫院

ややわかりにく場所で紹介が遅れてしまった

まるで城郭のような高い石垣が沢を挟んだ対岸から その上に尖がり帽子

下久堅の広域農道から少し下がった斜面に位置している

間口6間の本棟民家の一部と無理やりつなげた擬洋風建物

明治28年の建築という飯田市の有形文化財

鉄扉の鍵が開いていたので無断侵入すると 母屋の裏側を囲むように2棟の土蔵

建物裏側(西面) 右が本棟の母屋

(2016・10・11)

山本・杵原学校実測調査

山本公民館の林館長からの依頼で現況平面図作成のために実測調査

もとは統合前の山本中学校の平屋の木造校舎

観光バスが到着 内部見学と短時間の模擬授業が人気のようだ

2006年 山田洋次監督・吉永小百合主演の映画「母べえ」のロケで使われて有名

南と北にほぼ同じ校舎が2棟 渡り廊下でつながっている

教室は間口4間・奥行5間 当時の様子のほか映画ロケの写真あるいは

民俗資料など豊富な展示内容

(2016・12・11)

上村旧木沢小学校木造校舎

昭和7年(1932年)築 今年で87年になる 現在資料館となっている

玄関前には大きなネコが寝そべっていて なるほどウワサの猫校長だな 脇をすりぬけ校舎内へ

1階の廊下にはオルガンが多数

左は職員室のようだ 右は1年生の教室か 2000年に閉校したという

校舎中央と西端に階段があり 2階廊下の風景

(2019・11・10)

浜井場小・円筒校舎内部

昭和30年代 高度成長期の前段階 現在の団塊世代が学齢期で急増する入学児童に対応する形で

全国で建てられた円筒校舎は約100棟 設計は永井荷風の親戚筋でもある坂本鹿名夫 現存するのは17校と貴重な存在

なお円形校舎という表現もあるようだが 飯田市での通称でもある円筒校舎の方が相応しい

その昔 内部を見学した記憶があるのだが 2月末の夕刻 あらためて許可を得て入ってみた

奥にごく普通の3階建て北側校舎 円筒校舎との間に体育館があり その前面が昇降口となっている

渡り廊下を経て円筒校舎入り口 その対面の体育館内部

入り口を入ると右手に手洗いとWC 左手に階段 進んで中心部にラセン階段

1階の東側には家庭科調理室のようだ 中心に向かって入り口2ヶ所と黒板

つづいて教室が2室 いずれも低学年のようにみえる

小さく区切った部屋では入り口を右手 窓を左に見て 机が並んでいる

2階の中心部 ラセンの主階段 WCや従階段は同じ

この教室も低学年のようだが 人数が少ないので別の使い方かもしれない

左は入り口方向から 右は窓方向から ストーブが2つというのは気になる

ここは南西方向に面したプレイルームのようだ

さらに廻って西側の教室だが使われ方はわからない ほかには児童の委員会室がある

右写真は従階段の踊り場 段数をかせぐのに苦労している様子がみえる

3階に上ると 工作室のようだ 右手が入り口

さらに南へ廻っての大教室 ことによると壁を取り去って大きくしたかもしれない

さらに4階に上ると3/4が屋上部分

ラセン階段上部の意匠 天窓に丸型のガラスブロックか 周囲に高窓が並んでいる

ラセン階段の上から また少し階段を下りて見上げる天井

4階はローカにブラスバンドの楽器が並び

音楽練習室のようだ 北側の別校舎にも音楽室があったような気がする

ここが今回の6年生の卒業記念 円筒祭の主会場

その北側から屋上へ出て1周

北側の校舎から上郷台地方向 メタセコイアのシルエットが美しい

右廻りに進んで 橋北台地の突端から天竜川方向

やや南に振ると飯田城址方向 長姫神社の社叢附近

小伝馬町から橋北 さらには暮れなずむ飯田中心部方向

退出は もうひとつの階段を下った この階段も踊り場に向かって狭くならざるをえない

*

経済性を追求したというが とくに児童数が急増の時期 多少無理もあるな というのが印象

各教室の方位による居住条件の差や 扇形平面を 使いこなすに苦労したかもしれない

なによりラセン階段の踏み面の問題 混雑時には児童であふれ 危険性すら想像できる

 

建設当時 市議会は視察を重ねて円筒校舎の採用を承認したという

まさに高度成長のはじまる前夜 意欲的な計画には賛否両論あったに違いない

当時を伺う貴重な資料であり しかも今も部分的とはいえ使われている

橋北に育った人には大きな記憶遺産であり 飯田市の教育文化遺産として

追手町小学校とともに大切にしていきたいと思う

(2018・3・4)

円筒校舎ライティングプロジェクト BUILDING DIGNITY は こちら

 

昭和黒壁住宅

ときどき見かける黒壁の住宅 歴史研究所の樋口研究員から調べてみたらどうか といわれたが

当面は止めておきます と答えた それでも気になって できる範囲でまとめてみた

市街地で目に付く 伝馬町2丁目・警察署前交差点の菅沼家 大火以降の建築で黒漆喰の真壁

昔を知る左官屋さんに聞いてみたところ 漆喰ではなく 黒大津壁だという

こちらは くつわ小路の入り口の民家 ところどころ仕上げの黒壁が剥がれている

色土に少量のスサと石灰を混ぜ ニカワをくわえたあと松煙を入れて練り上げるのだそうだ

それを半年ばかり寝かせたあと 土壁の上塗りとして仕上げるという 塗り厚は1mmほど

よく見ると横にコテ痕が残っていて むしろ左官職人の美学としては

いかに均等に線を残すのか が腕の見せどころだったようだ

愛宕坂の加藤酒店の増築部分(左側)

時代ははっきりしないが 土・松煙ともに このあたりにはないもので建材屋が開業した後のようだ

さらに土には青土(あおつち)と黄土(きいつち)があり 黒大津は発色性から青土により 施工単価も高かったという

ただ青土とは青崩峠周辺に見られるような 青みがかった灰色だったようだ

また雨にさらされる腰の部分は蛇紋石の洗い出し仕上げが一般的

この建物は加藤酒店より愛宕坂を60m下った 加藤家 腰は なまこ壁

さらに段丘下の水の手町の曽我家 腰は正統派の洗い出し

やはり愛宕町の一角の本島家 母屋部分は黒大津のようだが

塀部分は松煙を入れた漆喰のようにも見える

(2018・7・17)

 

昭和初期メゾネット貸家

石畳風舗装が完成し春草通り と命名された仲ノ町と横丁の角に木造建物

下見板張りの現在空き家は戦前に建てられた 隣接する武家屋敷・安東家の一角にある

この建物を調査した宮澤正輝さんによれば タテ半分に仕切られていて それぞれ階段があるという

東側の2階には暗室が備えられていたというから 馬場町の写真屋さん安東光房の前身かもしれない

(2020・10・25)

 

旧中島耳鼻科

白山町の南側 裏通りに 古ぼけた木造建物 その昔 中島耳鼻咽喉科の医院だったという

建物裏側には旧城下町への御用水が今でも流れている

kid’s さんの短大時代の友人が バイトで ここの賄いをやっていたという話

つまり南側道路に面した各室は 入院施設だったようだ

(2020・12・17)

*

2ヵ月後 解体が始まった 2階家は すでに跡形もない 病室関係は瓦を取り外した段階

そして更地になった 手前の敷地も含めて 中島医院が所有しているという

(2021・3・4)

 

旧海軍豊川工廠川路分工場

川路の天竜峡の奥に残る 木造建物 太平洋戦争末期 海軍豊川工廠の分工場だったという

梁間 5間×桁行 17.5間の矩形で 小屋部分はトラスを組んだ木造平屋

同じような建物は18棟があったという ただ何を作っていたかは はっきりしていない

終戦後 下伊那農業高校の龍峡分校や川路保育所として使われてきたようだ

現在大きな1室を地区の柔道教室の道場として使われているが 床が一部陥没状態となっている

その他の部屋についても 床・壁・天井ともに老朽化が激しく 使用不能の状態

この4号棟の南側に もう1棟 5号棟が現存するが 崩壊状態で無残な姿を晒している

(2021・1・5)

元町空き家利用・裏山しいちゃん開店準備

元町に怪しいスペースが出現 屋外には屋台様のものが鎮座している

ここだけ取り残された懐かしい一角の店舗空き家だったが

その名も "うらやましいちゃん” 明かりが点いていたので入ってみた

デザイン関係の雑誌を中心にマンガ本なども 居合わせた若い女性二人

古本屋・ミニ広告誌発行・カレー販売とさまざまなものに挑戦するという

(2017・3・16)

 

裏山しいちゃん古着コーナー

相変わらず雑然とした雰囲気の店内 2階に古着コーナーが開設 散歩の途中に寄ってみた

急な階段(写真は上から)を上がると 小屋裏が丸出しの空間 すべて黒に塗装されている

その1角に婦人物の古着が数十点 紳士物もふくめ 充実させていきたいとのこと

(2020・10・1)

 

おまけ 阿智村駒場銭湯 旧玉の湯

三州街道駒場宿 右手に伍和方面に下る道がある 少し東へ進み 白壁の建物の脇に右へ下りる小道

そこから20mほど進むと さらに右に下りる小道の案内板

そこを下りていくと 先ほどの伍和に向かう道路にでるが その手前に銭湯の建物

大正年間から昭和45年ころまで 使われていたという

左が女湯 右が男湯 男湯の脱衣室はタタミ敷き これはおそらく銭湯廃業後 居室として使っていた模様

男湯の浴室 浴槽内の黒いものは直径5cmほどのパイプが幾重にも設置されていて

熱湯の配管から 浴槽内の湯を温める方式のようだ また手前には上り湯の浴槽があった

右写真は居間としての利用かもしれない 引戸の奥に2階への階段がある

(2021・3・21)

 

*

街角丸ポスト

鼎中平・久保田商店前の飯田郵便局40号

愛宕町・加藤酒店前の同39号

本町2丁目・大原薬店(廃業)前の同56号 大きく右に傾いている

旧大原薬店解体に伴い姿を消した丸ポスト56号が復活

通りの向いの高級和菓子店「いとうや」の敷地に移った

ただ設置場所は庭の中で 道路より1段高い場所 使い勝手からはどうなのか

後でも述べているように この丸ポストはどんな建物にも意外に調和する

和菓子店にとっては雰囲気が上がって儲けものというべきじゃないだろうか

(2016・3・22)

箕瀬3丁目・山村屋商店(廃業)前の同65号

2012年5月撤去されました つづいて建物も解体され更地となりました

伝馬町2丁目・三河屋酒店前の同35号 取り出し口が左側面

注目すべき点は石で出来た厳しい台座がないところで

そのぶん背が低く カワイらしい印象すら感じる

元善光寺駅前・かわもと屋前の同75号 取り出し口は背面

知久町3丁目・ひょうどう人形店の箕瀬側にあった10号 取り出し口は右側面

しばらく前 クルマに衝突されバラバラに 今は南側に4mほど移動して新しいポストとなっている

(なお在りし日の貴重な写真は飯田在住の郵便差出箱研究家 りみみ@postmap さんの提供)

またポスト愛好者の全国的な集まりのホームページは こちら です

2011・10・12

なお市役所改築工事に伴い ひょうどう人形店は移設 現店舗は解体され新ポストも撤去された

あらたに眼にした飯田郵便局77号は上飯田・羽場大瀬木線に面するサークルKの店頭

ほかのポストがそれなりの建物脇で風情があるが 現代風なコンビニでもそれほど違和感はない

そんな意味では異色かつ貴重な存在ではある

2012・1・8

上久堅・平栗簡易郵便局の丸ポスト

市街地ではないが 取り出し口が斜め右45度というのは初めて眼にした

2012・7・4

街角ではないが 道の駅「遠山郷」のWC前にある丸ポスト

ポストの白文字が消されてはいるが集配時間は明示されていた

2013・10・8

back