IIDA−River Terrace Landscape

丘の上の城下町・飯田/段丘景観スタディ

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※小冊子/伊那谷の暮らしと住まい →jump

 

飯田の町に寄す・岸田國士

劇作家・岸田國士(きしだ くにお 1890〜1954)

りんご並木の一角にひっそりと置かれた詩碑 市民ならば一度は耳にしたことがある詩

やや面映くなるほどに賛美されている町や人の姿だが その中に

「粛然として古城の如く丘にたつ町」の一節がある

これほどまでに丘の上の城下町飯田を表している言葉を ほかに知らない

ここでの「古城」には むしろ欧州の城塞都市のニュアンスを感じる

最初 松本に疎開した國士は その冬の寒さに閉口して 昭和19年飯田に移ったといわれ

居を構えた場所は鼎中平の現在の結婚式場 ビーラクス の経営者・本田さん宅らしい

ある資料では本田さんに寄宅したのは二人のお嬢さんだけで 本人は山本に住んだという

奥さんを亡くされていた身にとっては充分考えられることではある

現在の結婚式場 ビーラクス 向こうは愛宕台地 愛宕神社の社叢

その山本の居宅がどこであったかは確認できていないが いずれにしても その後の

飯田文化人あるいは疎開していた人たちとの交流を考えると 少なくとも電話が

利用できる環境にはあったはずで 当時の電話帳から類推することはできそうだ

その駐車場から見る 長姫台地の常盤町ビル群 もちろん当時は低層の木造建物

飯田へは山本から駒場線のバスで羽場坂を上り 大通りから飯田駅に出たのか

時によっては切石でバスを降り 中平の本田さん宅まで歩き 二人のお嬢さん

後に童話作家となる長女の衿子と俳優になる次女・今日子の姉妹と連れ立って

愛宕坂を登り 飯田の町に出て 食事をするようなことがあったかも知れない

北方を下りる古い国道からのバスの視角 現在の愛宕台地とその向こう常盤町ビル群 手前のクルマは新しい坂道

また上の詩の初出は昭和22年6月の市広報であったという つまり時間的には

その2ヶ月前の飯田大火以前に書かれたものであり 町の様子と考えてよい

昭和22年9月撮影GHQ写真 飯田大火5ヵ月後の航空写真 解説は こちら

人にとって景観とは まさに頭の中のイメージであるが 脳の中の記憶は往々にして

現実とはちがったものであることが多い 個人的には願王寺(かやがき)下からの

段丘風景が國士のイメージであると思いたいが やはり坂道を上下する体験

あるいは大火前の古い町並みなどを総合しての景観イメージなのかも知れない

さらには その後の飯田大火を どんな想いで見つめたかも定かではないが

昭和23年 疎開生活を終え 東京に戻っていったという

(2015・9・13)

 

丘の上の城下町・飯田/段丘景観スタディ

黄色の比較的低地を囲む濃い緑が 勾配が3/10以上のいわゆる崖地である

飯田市は長野県南部 天竜川とその支流・松川の河岸段丘が交差する台地に発達した城下町であるが

その周辺には様々な段丘景観が存在していて まさに「段丘の町」と呼ぶにふさわしい

それらは そのスケールに応じて 次の3つにわけることができる

 

A 大規模段丘景観…天竜川の両岸からの段丘景観              .

B 中規模段丘景観…天竜川の支流・松川の両岸からの段丘景観      .

C 小規模段丘景観…松川に流れ込む小河川による市街地崖地景観     .

 

1 松川段丘景観

松川の河岸段丘は 1〜1.5kmで対面する比高50mの台地から成り 長さ4.5kmにわたる独特の段丘景観を誇っている

とくに丘の上の市街地の飯田段丘は ほぼ南面しているために一日を通して その印象には非常に強いものがある

また高所からの俯瞰した都市の姿は かなり撮られてはいるが 横からの都市景観は珍しいのではないか

 

1) 鼎方面からの飯田台地の段丘景観

左は一色長坂から 右は一色宅造地から

かやがき坂からの視界110度のパノラマ風景を広角側で撮ったもの

水の手坂を上りきったところから眺めtる鼎中平・上山方面

右上の寺叢と赤い屋根が願王寺 そこから左のイオン看板の下に見える坂道の屈曲点

これは1月12日午後1時ころ 空気の澄んだ 年間をとおしても滅多にない快晴

風越山から市街地を正面にみて さらに東に遠く南アルプス北部の雪山を望む

上記場所から準望遠で合成したパノラマ写真

左は下農テニスコート下から 中は矢高公園下から 右は旧遠州街道牛草坂から

常盤町ビル群と風越山との重なりに注目したい

 

2) 笠松山麓からの松川段丘景観

昭和50年代に制定された信濃路自然遊歩道・伊那谷ルート上の景観ポイント 詳しくは こちら

なお以下の写真は南から北 飯田市街地方向へ移動しているので

比較する意味で 右から左へ並べている

右は梅ヶ久保下から 中は北方佐倉神社から 左はポニー牧場下から ここが一番定評のあるところ

右はポニー牧場から北に移動した大原集落附近から 左は景喜地から 横から段丘を眺める位置

 

3) 飯田台地からの鼎・八幡段丘景観

左は飯伊森林組合駐車場から 中は箕瀬坂から 右は羽場トーエネック裏附近から

 

2 天竜川段丘景観

天竜川の河岸段丘は いわゆる伊那谷と呼ばれるもので 長野県南部をほぼ南北に貫いていて

辰野町から伊那市・駒ヶ根市をへて飯田市天竜峡までの 長さ60km 幅は5〜6kmにおよぶものである

 

1) 天竜川左岸のいわゆる竜東台地からの飯田台地 あるいは高森台地

左は下久堅常信院から 中は喬木村アルプスの丘公園から 右は豊丘村林公園から

西に向いているので 夕陽・夕焼けなどの夕景 また飯田市街地の夜景に定評がある

左がアップルロード 右が飯田市街 下久堅北原の木曜クラブハウスから

 

2) 天竜川右岸の飯田市あるいは高森町の台地からの下段の集落風景

 左は座光寺浅間砦下から 中は長姫神社突端から 右は松尾北辰神社から

 

なお C の市街地小河川の崖地については 古くから様々な法面補強が行われており

これまた独特の飯田崖地景観を 形作っているが 別項 「旧市内・斜面萌え」 として取り上げている こちら

 

3 市街地坂道景観

段丘に上る坂道はいくつかあるが とくに崖地に直角に向かう道は独特の風景を形づくる

けっこう好きな人がいて 下から見上げるのが好きな人 逆に上からの建物の間の俯瞰風景が好きな人もいる

やはりビルや樹木など明確な景観対象物があれば見上げることになる

左は鼎中平からの「ホテル・オーハシ」 時として浮き上がってみえることがあり天空ビルと呼びたい

中は同じ道を進み愛宕坂の酒蔵の間から見上げる和風建築「蕉梧堂」

右はさらに愛宕坂を上がり上の段への最後の階段と本町再開発ビル 手前 三角のテラスに記者桜が突き出ている(後述)

左は上右と同じ愛宕坂が2つに分かれ階段をさけて上る道 桜は記者桜といわれ最も早く咲くとして有名だったが 途中で伐られた

ただ枝はたくさん出ているので いずれはまた花を咲かせてくれるかもしれない と思っていたら上部建物の解体に伴い伐採・抜根

中は愛宕町の下から見上げる常盤町ビル群 右は谷川線から馬場町へぬける坂道

旧飯田城二の丸空堀附近 左はそこに至る小道から見上げる 追手町小学校のメタセコイア

中は同上 追手町小学校の校庭に入る追手橋 正面には長野県合同庁舎のイチョウ

右は逆側 追手橋の下をくぐって鼎方面の俯瞰風景

左は大久保町の坂道から 中は旧飯田城本丸の空掘から南側の鼎方向 右は逆に北側の空掘から橋北台地方向

俯瞰風景は額縁効果により街並みは大きく見えるような気がする さらに天候や太陽の位置によっては

ハッとする光景に出くわすことがある 貴重な景観であろう

2015・3・7

 

新着 丘の上の城下町全景写真

飯田駅前の観光案内所に掲示されている段丘上の旧飯田城と城下町全景写真

持ち主から中日新聞掲載のコピーをいただき 中日新聞フォトサービスに電話で注文

ところが新聞掲載日が不明のため用意できないとの回答

しばらくそのままにしておいたが 図書館で調べてもらうことを思いつき

司書の樋本さんの手をわずらわして ようやく判明した 発注後1週間ほどして到着

ほぼ同じアングルでの着彩屏風があるらしいが これはヘリコプターによる実写版

厳重な転載禁止文言に これ以上のものは掲載できませんが 興味のある方は上記電話番号に ご注文を

飯田城から城下町さらには風越山 と丘の上の全景をとらえた貴重な写真となっています

中日新聞長野県版2011年1月21日付け 「空から!飯田城跡」というコラム内の写真です

(2016・9・25)

飯田城図屏風

昭和58年に作成された城下復元屏風(飯田城ガイドブックより)

古地図から推測して描かれたようだ 上の写真とくらべると

全体にパースが効いていないので やや平板的なのは否めないが

風越山や市街地河川との関係はよくわかる 貴重な絵図だ

(2017・9・25)

 

飯田城復元鳥瞰図

「週間 日本の城 no.118」 deagostini より

金澤雄記・復元 浅野孝明・CG

一番手前が山伏丸 つづいて本丸 次が二の丸 さらに桜丸・出丸

 (2017・1・21)

 

※おまけ 丘の上の城下町 〈 飯田リバーテラス・パノラマ 〉

以上の報告は飯田歴史研究所「わが町ゼミ」でのレポートである

くわえて同ゼミでは「わが町風景展」としてギャラリー展示をおこなった

以下はそこへ出品した上記 ミニ写真屏風の展示風景である

6枚の写真をA4判タテ使いでつないだパノラマ屏風写真 幅は約120cm

それをを壁に掛けるための台をスチレンペーパーで制作 自宅にて確認したのが左写真

右は飯田市銀座1丁目スクランブル交差点の貸ギャラリー「吾亦紅」での展示

外に面した展示スペースへ

高さは目線の位置にしたかったが外光の反射が予想されたので低い位置にセットした

(2015・3・17)

飯田歴史研究所年報14号掲載

2015年9月6日 飯田市地域史研究集会において 発表した「飯田丘の上と段丘景観」を

年報14号に掲載

9ページにわたる読物は 城下町成立過程について大胆というか かなり強引な自説を展開

同時に段丘景観の特長を紹介

多くの人の批判を仰ぎたい

(2017・1・1)

 

小冊子・景観しりとり 飯田の休日

樋口ゼミも3年目を迎え 今年度は小冊子・旅のしおり を各人が作成

3月半ば 歴史研究所にて製本作業 A5判横使いの14ページに統一

撮りためた写真を無理やり 「しりとり」 としてつなげてみた 左が表表紙 右が裏表紙

まずは大平街道・木曽峠トンネルから

つづいて段丘の城下町・飯田遠望

城下町の主軸・本町での冬至の日の出風景から

もう一度もどって 北方からの段丘風景を見開きで

今度は急傾斜地 馬場町のくつわ小路の崖屋造りから 桜の動物園

正面に見えるランドマークとしての鬼面山にふれ

さらに雪形つながりで 中央アルプスの雪形・五人坊主を載せた

(2017・3・30)

 

小冊子・旅のしおり

たまたま所用で発表会には参加できなかったが 4人の方の「旅のしおり」を紹介

 

高森町在住の大洞さんは町の象徴・高森山

3つのルートをそれぞれ切り抜いた労作

構想の段階で聞いてはいたが こんなにうまくできるとは

 

伊那市在住・小平さんの作品

1/100で描かれた通りの店舗外観図

ほんとに細かく描き込まれ 史料価値も十分

なお小平さんは商店街の立体模型にも挑戦しており その様子はテレビ朝日系列「人生の楽園」で放映された

その小平さんがオーナーの雑貨店グリーンゲイブルズ →jump

 

喬木村在住の横前さんによる

地元周辺の何気ない風景を

愛情をもっての紹介

 

トリは歴史研究所・樋口研究員

おそらく古の東山道と推測される旧道

その地形的考察も含めて

(2017・4・13)

伊那市・グリーンゲイブルズ

伊那市の住宅地の一角 緑に囲まれた雑貨店 ややわかりにくい場所なのだが

本家のプリンスエドワード島の 赤毛のアンの家・グリーンゲイブルズの雰囲気に似ていないこともない

店内はやはり そのイメージのクラフト品が並んでいる 元先生の小平さんは木工担当

(2017・8・1)

 

小冊子/伊那谷の暮らしと住まい

樋口研究員による建築史ゼミのラストイヤー メンバー有志で小冊子を編集した

発行は飯田市歴史研究所

冒頭からの住まいの移り変わりについて8頁にわたって担当した

写真は左が上久堅・北田遺跡の復元・縄文たて穴式住居 右が重要文化財・松下家(大鹿村)

左が喬木村伊久間の養蚕農家 右が飯田市旧大平集落の おおくら屋

左が殿町の武家住宅・福島家 右は仲ノ町の長屋

町家住宅の項で 町家の厨子(つし)2階を →(ずし)と編集段階で直されてしまった

一般的な読み方と違うので あえて括弧書きしたのだが 学術用語であり 執筆者の

見識を疑われる可能性もある残念な事態となってしまった

左が日夏耿之介旧宅の復元記念館 右は上郷野底の分譲住宅地

*

ちょうどいい機会で 住宅の移り変わりを自分なりにまとめることができて良かった

なお写真は多数用意したが編集上 割愛せざるをえなかった

(2019・5・2)

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